2017年5月28日(日) 聖書を読む幸い

 おはようございます。平和の君教会の山下です。今朝は、自分のことをお話しします。
 私の家は、多くの日本人のように仏教徒の家でした。仏壇が置かれ、故人の命日にはお寺さんに来ていただきお経を唱えてもらったりしていました。長くてしびれを切らしたこともしばしばでした。しかし特別に熱心な仏教徒ではなく、神棚も祭られ柏手を打ったり、お正月には近所の氏神様にお参りし、商売繁盛の神社にも詣でるのが常でした。そのため私自身は、バチが当たることと地獄絵に描いてある地獄が怖いと思って育ちました。

 初めて聖書を手にしたのは、大学の入学式の折、手渡されたギデオン協会による赤表紙の英訳付新約聖書です。多くの学生さんたちがすぐ側ののダンボール箱に投げ入れていましたが、私は何故か「聖書を捨てるとバチが当たるのではないか。」と思い、家に持ち帰り読みました。さすがに最初のキリストの系図には躓きませんでしたが、自分が期待したようなものではなく、巻末の「折に触れて」のみ言葉だけを読んだような記憶があります。今からかれこれ40年前の昔の出来事です。
 このように恐らく聖書との出会いは、人によって様々でしょう。私は、聖書を捨てることが出来なかったことによります。教会で洗礼を受けたのは、それから2年後のことでした。

 今日の聖書の箇所には、イエス・キリストが教えて下さった「種まきのたとえ」が記されています。聖書と私との関わりについて述べられていると言ってよいでしょう。
 ここには4つのタイプが出てきます。最初は「道ばたの種」で、読んでもすぐ忘れてしまう人です。2番目は「石地の種」で、何か困難や障害が起こってくると止めてしまうタイプです。3番目は「茨の中」で、様々の誘惑によってやがて神様から離れてしまう人です。最後の4番目の「良い地に落ちた種」だけが、成長し多くの実を結んだのです。これは、聖書というのは、すぐに分からなくても、忍耐強く読み続けることによって少しずつ分かるようになる、ということを教えています。

 しかしここにはもう一つ大事な真理があります。それは、聖書はわたしの力で読むというよりも神様が私たちの心を開いてくださることにより本当に分らせていただく書物なのです。牧師となった今でも、ここはもう分かったとするとそれだけですが、心を空しくして読むことによって思いがけないことを教えらたり発見したりする経験も時々あります。その時はもう本当に嬉しいです。ですから何も聖書の偉い学者さんにならないといけないとか、ただただ聖書だけを読まないと分からないというのでもありません。
 よく「好きこそ物の上手なれ」という諺が言われます。どんなことでも一つのことをずっと続けて来れたのには、その人の努力とか熱心とかがあったかも知れませんが、それに心が惹かれたとか捉えられていたということはないでしょうか。

 是非皆様も実際に聖書を手にとって読んでいってください。興味の涌くところからでも良いですが、出来れば聖書全体を1章ずつ分かっても分からなくても続けて読んでいって頂きたいと思います。そうすることによって少しずつ聖書の世界が開かれてくるはずです。そしてどうか教会の礼拝にご出席くださり、説教に耳を傾けてください。聖書は独学ではなく、良き導き手によって教えられていくものでもあります。聖書を通して真の救い主に皆様が出会われることを私も心から祈っています。