2017年8月27日(日) すべての部分が共に喜ぶ

 おはようございます。私は高知県南国市にあります、清和女子中高等学校聖書科の中山仰といいます。
 今日は音楽を通して、教会や人生について考えてみましょう。小学生の頃、私は指揮者はいなくても演奏はできるのではないかと思っていた時があります。自分で仲間の指揮をとってみて、何であんなに指揮者がたたえられるのかと思っていました。仲間内のような演奏なら、下手な人がいるから必要かもしれないけれど、演奏家はみんな一流のプロなのだから任せておけばいいし、してもいいけれど必要以上にたたえられるのはどうかと漠然と考えていました。この考え方は、音楽に触れれば触れるほど大きな間違いであったと、自分の浅はかさに愕然としたものです。

 たとえば、楽譜にはテンポや音量が指定されていますが、実際にどれくらいの音量で演奏するかは、指揮者に任されているのです。音を伸ばすフェルマータについては、小説の記号がない時代に、休んだり、延ばしたりする印ではなくて、区切りの印だったそうですから、指揮者の理解によって全く違うものになります。また全休止と指示されている部分をどれだけ休むか、アレグロやアンダンテなどをどの程度の速さにするのか、指揮者によって全く違ってきます。

 プロの演奏家は各自が培ってきた音楽理解によって、それぞれのイメージができあがっていますから、団員がプロであればあるほど、まとめて引っ張っていく指揮者が必要になってきます。プロは自分の解釈に絶対の自信を持っています。そう簡単に自分の主張を変えたりしません。50人のプロの演奏家がみな良かれと思って、それぞれ自分の解釈で演奏したらまとまらないことこの上ないのです。良い指揮者は彼らの特性をうまく用いて、全体でどのような方向へ持っていくかということで、絶対に指揮者は必要なのですね。

 パウロはコリントの信徒への手紙一の12章12節以下で面白い表現をしています。体にはいろいろな部分があっても一つの体であると。当然と思えるようなことですが、パウロは教会が一致して、それぞれが助け合って建て上げて、はじめてまともな身体なのだと言っています。しっかりした信徒ばかりでない教会は特に、私たちが体の中で他より弱く見える部分をかばうように、教会こそそのようにそれぞれが助け合うものでなければならないと教えます。

 「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」(コリント12:26)と、一致と一致による喜びを身体のたとえを用いて分かりやすく教えてくれます。このように自分の体にたとえられたなら分かるのですが、オーケストラなど他人と一緒にやっていく場合には、すんなり助け合えないのが私たちなのではないでしょうか。

 ところでオーケストラが出来るころの演奏家の給与は、担当する楽器によって値段が異なっていたという話を、オルガニストでバッハコレギウムジャパンの指揮者である鈴木雅明氏から聞いたことがあります。どの楽器が一番高給取りだったでしょうか。答えは、トランペット奏者でした。トランペットが用いられる箇所は、神の栄光をあらわすところに多く使われているので、高かったようです。現在は演奏家の腕前であるとか、何年携わっているかということで決まるのではないかと推測します。どんなに演奏の力があったとしても、トランペットが上と決まっていたのですから、従わざるを得なかったのではないでしょうか。それは力量ではありません。神さまの定めに従い、当然の結果と考えていたからでなくてなんでしょうか。

 自分の得意な分野や能力を用いて喜んで演奏するとか、喜んで生きることが神に喜ばれることであるという点から受け入れるのでなければ、ただ不公平だとか自分はこんなに一所懸命にやっているのに、この給料の差はなんだとか、そういう不満ばかりの人生になってしまいます。相手の力を最大限に尊重して、一緒にやっていくという心がけが大切であると私は考えます。私たちはそれぞれの賜物や能力をもっていますが、神さまは間違いなくすべてをご存知で、一人ひとりを愛していてくださっているからです。