2017年10月8日(日) 心の貧しい人の幸い

 おはようございます。高知市上町4丁目にあります、日本キリスト改革派高知教会の小澤寿輔です。今日、共に聖書の言葉に耳を傾けることができることを、主に感謝します。
 今週から連続で、イエス・キリストの「山上の説教」の「八つの祝福」に聴いていきたいと思います。今朝は、最初の祝福についてです。

 マタイによる福音書5章3節に「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである。」とあります。
 世に一般的に言われる「幸い」とは、本人が満ち足りて不平不満がなく、幸運な状況を意味します。ですから、「心の貧しい人々は幸いである。」と聞くと、「いや、それはおかしいんじゃないの?」と感じるかもしれません。
 
 イエス・キリストが私たちに言われる「幸いである」という言葉は、「祝福されている」とか「神から恵まれている」という言葉です。本人が自覚しているか否かにかかわらず、「現に今、神から恵まれているのですよ。」と言っておられるのです。どんなに貧しくても、どんな逆境に立たされていても、神が祝福してくださるなら、その人は間違いなく「幸い」なのです。

 次に、「心の貧しい人々」とは、どのような人を指すのでしょう。詩編の中には、いたるところに「貧しい人」という言葉が用いられていますが、それらは「ただひたすらに神に頼るしかない無力な人」「神に近い、神に喜ばれる人」のことを指します。ですから、イエス・キリストが言われる「心の貧しい人々は幸いである。」とは、「自分が全く無力であることを知って、ただひたすら、神に依り頼む人は幸いである。」という意味になります。生きていくために必要なすべての物の源が、自分の中に全くないということを知って、必要な助けと力を神の中に見い出す人は幸いなのです。

 こういう人には、「天の国はその人たちのものである」という祝福が約束されています。「天の国」とは、神の「王国」という意味で、神が王として支配しておられる、そのご支配のことを指します。ですから、「天の国はその人たちのものである。」とは、神の王としてのご支配が彼らに及び、彼らが神のご支配の中に生きる、という意味になります。
 私たち人間は、神のご支配の中に生きるとき、最も平安でいることができるのです。ですから、私たち人間にとって、これほど嬉しい約束はありません。

 この世の人たちが頼って生きているもの、例えばお金や、地位や、名誉や、人脈や、物、あるいは幸運などというものは、一度は私たちの所にめぐって来るかもしれません。そして、私たちの生活を満たしてくれるかもしれません。しかしこれらのものは、いつかはまた離れ去るものです。ですから、もし私たちがこれらのものを追って、それらによって幸福になろうとするならば、非常に不安定な、はかない幸福で終わってしまいます。「本当の幸福」とは、めぐりめぐって来る地上のものではありません。私たちに愛と憐れみをもって迫ってくださる神と永遠の関係を持たせていただく、ということなのです。

 ですから、今は、心が貧しくされても良いのです。たとえ心が貧しくされても、それによって、永遠の幸福を与えてくださる神との良い関係に入ることができるのでしたら、それほど幸いなことはないのです。クリスチャンはそういう意味で、「幸いである!」とイエス・キリストは言ってくださるのです。

 そして、キリスト教会は「幸いな人たち」の集まりです。教会は、この忘れられている「幸福」を、主イエスから指摘され、知らされ、心からの喜びと感謝の賛美をもって神を礼拝する場なのです。教会では、このイエス・キリストの慰めに満ちた言葉が、今日も、明日も、いつまでも、ずーっと、人々の心の中で響き渡っているのです。