2018年9月23日(日) 恵みが迫ってくる人生

 おはようございます。南与力町教会牧師の坂尾連太郎です。
 わたしは両親がクリスチャンの家庭で育ち、小さい頃から教会に行っていました。しかし、中学、高校時代は教会から離れていました。大学受験に合格したのをきっかけに、久しぶりに教会に行くようになりました。

 その時、詩編23編の御言葉を改めて聞きました。わたしは昔から、その言葉自体は知っていたと思います。しかしその時、そこで意味されていることが自分には理解できない、ということに気づきました。特に4節の「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。」という言葉です。

 わたしは特に特技もなく、あるコンプレックスを抱えていたように思います。それで中学生の頃から自分なりに勉強をがんばっていました。今から勉強をがんばっていれば、良い高校にいける、そうすれば良い大学に入れる、そうすれば良い企業に入れる。そうして、安定したそれなりに幸せな生活を送れる。そのようなヴィジョンをもって勉強していたのです。それゆえ、志望大学に合格できたことはわたしにとって一つの大きな目標達成であり、わたしの目の前には将来への希望が開けていました。

 そのような時に、さきほどの御言葉を改めて聞き、それが自分とは異質なものだと感じました。「わたしは今は、大学に合格して将来への希望を抱いているけれど、もし自分が『死の陰の谷』を歩くようになったとき、自分は果たしてどうなるのであろうか。それでもなお『わたしは災いを恐れない』と言えるのだろうか、いや、自分には言えない。」そのようにわたしは思ったのです。

 ではなぜこの詩人はこう言うことができたのでしょうか。その理由はただ「神様が共にいてくださる」という確信があったからです。しかし、その時のわたしには、自分にはそのような神様を信じる信仰がないということを認めざるを得ませんでした。それから、わたしはどんな逆境においても「わたしは災いを恐れない」と言える信仰とは何だろうか、また自分もそのような確かな人生を歩みたい、と思うようになっていったのです。

 詩人は冒頭で「主はわたしの羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」(私訳)と語っています。教会へ行かないでいたころのわたしは、自分の力で生きていこうと考えていました。しかし、詩人はそうではありません。自分を羊と見なしています。

 羊は弱い動物です。自分の力だけで生きていくことはできません。特に詩編が作られたパレスティナ地方は乾燥地帯であり、羊が生きていくには厳しい環境です。羊飼いが羊を青草の原へ導き、憩いの水のほとりに伴ってくれるからこそ、羊は生きられるのです。

 そして詩人は「そのように主なる神様が、わたしの羊飼いとしてわたしを導き、養ってくださる、荒れ野のような厳しい人生の中で時に魂が飢え渇いてしまうことがあったとしても、主はわたしの魂を生き返らせてくださる、回復させてくださる。だから、わたしには何も欠けることがない、何も乏しいことがない。」そのように語ることができたのです。

 そしてたとえ「死の陰の谷を行く」ようなときにも、羊飼いである「あなたがわたしと共にいてくださる」。そして羊飼いの道具である鞭や杖をもって敵を追い払い、わたしを守り、導いてくださる。だから、「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。」そう言うことができたのです。

 そして6節では「命のある限り、恵みと慈しみはいつもわたしを追う」と言われています。敵に追われ、苦しみに直面するようなときにも、主の恵みと慈しみがいつも、命がある限り毎日、わたしを追ってくるのです。自分が必死になって、主の恵みを追いかけるのではありません。主の恵みのほうが、わたしを追ってきてくれるのです。

 どんなときにも羊飼いである主が共にいてくださる、そしてその主の恵みがいつも自分を追ってくる。そのような幸いな人生を、わたしたちも主に信頼しつつ、歩んでゆきましょう。