2023年3月26日(日) 回り道だとしても

 おはようございます。高知県香美市の山田教会で牧師をしています高内信嗣です。よろしくお願いします。

 中高生の時代を振り返りますと、毎日、学校と家を往復するだけの平凡な毎日でした。毎日が何もないまま過ぎ去っていく。特に目指すものもない。同じところをぐるぐる周っているだけの人生のように思いました。ぐるぐる回っているだけのような毎日に、意味はあるのか。今日は少し、そのことに焦点を合わせたいと思います。

 インド出身のマハトマ・ガンディーという人がいます。インドのイギリスからの独立運動を指揮した人物です。ガンディーの名言の一つに、「速度を上げるばかりが、人生ではない」という言葉があります。厳しい人にとっては、負け犬の遠吠えのように聞こえるかもしれません。ですが、じっくり考えると深い言葉です。

 私は、何かの目標を持って真っすぐ進んでいく人に憧れをもっていました。回り道をしたり、沈黙したかのように思える自分の生活に、劣等感を抱いていました。自分も何かに向かって真っすぐに進んでいきたかった。漫画やドラマの主人公みたいに生きたかった。でも、「速度を上げるばかりが、人生ではない」という言葉を聞く時に、「回り道をすることも人生」、「静かな、沈黙したような日々も人生」だと教えられます。

 「回り道」ということに関連して、本日は、もう一人の人物も紹介したいと思います。ヨハネス・グーテンベルクという人です。15世紀半ばに、印刷術で革命を起こす発明をした人物です。彼は、宝石磨きの仕事をしていましたが、ある時、図書館で、ある書物を見せてもらい、感激しました。当時の書物は、手書きか、一枚の板で版を作る木版で作るものしかなく、とても貴重なものだったのです。

 もっとたくさんの人に書物を見せたい。グーテンベルクはそう思いました。彼は仕事を捨てて、木版の技術を学び、苦労の末に、木版の絵がついている聖書を出版しました。しかし、彼にはまだ、大きな目標がありました。それは、本物の聖書を丸ごと出版するというものです。手で彫り上げる木版ならば、何十年もかかる事業です。それでも彼は、コツコツと彫り上げました。途方もない道です。ある晩、彼は、うっかり作業中の木版に傷をつけてしまいました。彼は、なんとかならないかじっくり見つめていると、突然、アイデアがひらめきました。木版の文字をばらばらにして使えないだろうか。

 こうして、一字一字、アルファベットを刻んだ活字が誕生し、活字の組み合わせによる活版印刷技術が発明されたのです。この技術は革命的な技術で、民衆にも、様々な書物、そして、聖書という書物が広く行きわたるようになったのです。途方に暮れそうな事業の中で、一つの突破口が開かれたのです。

 そのことに関連して、ここで、一つの聖書の物語に目を向けたいと思います。旧約聖書のある場面からです。この時代の神様を信じる人たちには、神様から、「この土地を与える」という大きな約束が与えられていました。しかし、その土地には、エリコという城壁のある大きな町が立ちはだかっていました。

 そのような中で、神様は、毎日、町を一周し、それを6日間続けるように、そして7日目には、町を7周して、最後に鬨の声あげるようにお命じになりました。彼らは命令通り、毎日、一周、ぐるっと町を回るわけです。沈黙した、遠回りのように思えることを、神様はお命じになりました。そして7日目。町を7周して鬨の声を上げると、エリコの城壁は崩れたのです。ぐるぐる回っているだけで、最初の6日間は意味がないように思えます。この沈黙したこの時間に意味はあるのか。しかし、この時間は、彼らにとって必要だったのです。沈黙を乗り越えて、一気に道が開かれたのです。(ヨシュア6:1-20参照)

 私たちの人生もそうかもしれません。毎日が空虚な時間に見えても、その時間は、視点を変えれば、大切な時間なのかもしれません。「速度を上げるばかりが、人生ではない」。つまずいたとしても、回り道だとしても、この時間は、神様に与えられた大切な時間です。それが回り道だと思っているのは、私たちだけかもしれません。神様の目から見たら、私たちに必要な大切な時間なのです。回り道だと感じても、この時間は必ず用いられる。神様は必ず、私たちの歩みを整えてくださるお方です。そう信じて、今日の歩みへと押し出されたいと思います。