2011年6月28日(火)小さな朗読会142「イスラエル人の礼拝・祭り」

 民全体が始終神様に対して罪を犯すので、祭司アロンは、金の幕屋の前庭にある大きな青銅の祭壇で、動物のいけにえをささげるように命じられました。
 今日では私たちの罪を除くために、動物を殺して、祭壇でそれを焼くというようなことはしません。イエスさまがこの世に来て、私たちの罪を除くために、十字架上で死なれました。イエスさまご自身が大いなるいけにえでいらっしゃいました。しかし、モーセやイスラエルの民は、イエスさまよりずっと昔に住んでいて、わたしたちのようにイエスさまのことについては知りませんでした。

 人が罪を犯したことを自覚し、神様が自分を怒っておられると思った時は、雄牛、羊、あるいは山羊を幕屋に持ってきました。そこでその人は、自分の手をその動物の頭におきました。これは、自分の罪を動物にきせることを示すためでした。それから、その動物は殺され、アロンや他の祭司たちがそれを祭壇で焼きました。こうして、何も悪いことをしない無垢な動物が、罪を犯した人に代わって殺されました。しかし、神様は、動物が殺されたのでその人の罪を赦されたのではありません。キリストが罪のために死ににこられるからです。殺された動物は、いつかは世の罪のために死なれる、キリストの象徴にすぎませんでした。神様は、未来においてキリストがその人の罪のために死なれるので、この人の罪を赦されたのです。

 どの人も、生涯、神様に対して毎日罪を犯すので、アロンは毎朝、毎夕、いけにえをささげました。毎朝、毎夕、子羊が殺され、血を注ぎだしたあと、前庭の祭壇で焼かれました。このほかにも、いろいろないけにえがありました。いけにえには、四種類の動物が使われました。それは雄牛、羊、山羊、山鳩で、他の動物は使えませんでした。これらのいけにえは、はん祭と呼ばれました。また、神様に特に感謝を表したいとき、あるいは、神様の祝福を求める時はいつでも神様に供え物をすることができました。これは、酬恩祭と呼ばれました。人々はまた、イースト菌なしで作ったパンや、油、麦粉を供えなければなりませんでした。この供え物の一部は祭壇で焼かれ、一部は祭司に食べるため与えられました。足が不自由であったり、目がみえなかったり、傷がある動物は供えられませんでした。最上のものしか神様には供えられません。

 年に一度、ユダヤ人たちは、贖罪の日といって、厳かな断食の日を守りました。この日にはイスラエルの民は働くことが許されないで、安息日の時のように休まなければなりませんでした。この日一日は、彼らは自分たちの罪のことを考え、それを悔いることに用いました。また、一年にこの日だけ、大祭司であるアロンは、神様の栄光がケルビムの間から輝く幕屋の奥の部屋である至聖所に入ることが許されました。この厳かな日、アロンはその立派な衣服をぬいで、神様に会いに至聖所に入るため、真っ白の麻の服を着ました。誰も一緒に入ることは許されませんでした。

 まず第一に、彼は若い雄牛と二頭の若い山羊を持っていきます。彼は雄牛を殺し、次に、香炉ーこれはくさりで吊り下げられている器ーに、はん祭の祭壇から取った炭火を入れました。そして、この火にこうばしい香をくべ、良い香りが雲の上に上がるようにしました。雄牛の血を少し持って、大祭司は特別な方法で、神様がご自身をお示しになる至聖所に垂れ幕をくぐって入っていきます。大祭司は、部屋全体に、香の雲が満ちるように香炉をふりませ。七回、彼は雄牛の血に指をひたし、ケルビムのある贖罪所にその血をふります。これを終えると、アロンは外に出て、生きている山羊の頭に手をおき、イスラエルの民の罪をみな告白して、その罪を山羊に着せてしまいます。それから、彼は山羊を誰か良い人に渡し、その人は、山羊を荒野の遠くまでつれていきます。山羊はイスラエルの罪を、遠く荒野にもっていくのです。そうすれば彼らの罪は、永遠に除かれることになるのです。アロンがこれらのことをしている間、イスラエルの民は一日中、自分たちの罪を嘆きました。これが終わると、アロンはその聖い、純白の衣服をぬぎ、翌年の贖罪の日に備えてそれを聖所においてきました。

 イスラエルの民がエジプトを出て一年たちました。神様が夜のうちにエジプトの国を通られ各家々の長子を打つので、子羊を殺し、その血を各家々の門柱にぬるようにと神様が命じられた恐ろしい夜から一年が過ぎ去りました。
 神様は、モーセを幕屋に呼び、「イスラエルの民がエジプトを出てから一年になる。この月の十四日に、過ぎ越しを守るよう命じなさい。」と言われました。イスラエルの民は、命じられたようにしました。一年の最初の月の十四日に彼らはシナイの荒野で、過ぎ越しを守りました。彼らは羊を殺し、各家庭の父親は、その血を自分の天幕の入り口に塗りました。それから、エジプトであの恐ろしい夜にしたと同じように、旅の服装をして、大急ぎでその羊を食べました。小さな子供でもあの夜のことは覚えていました。過ぎ越しの夜の後、
民はまる一週間、イースト菌の入らないパンを食べました。これは、エジプトから出るのを急がされたことを記念するためです。

 神様は、モーセに、過ぎ越しの他に、年にあと二つの祭りを持つように言われました。過ぎ越しから七週と一日ののち(五十日後)には「七週の祭り」がもたれます。このとき民は、主に供え物をし、主が祝福してくださったことを感謝するのです。
 それから、作物の収穫の時には、一週間続く「仮庵の祭り」という祭りがもたれなければなりません。この仮庵の祭りは大変楽しい時で、神様は民に、なつめやしやはこやなぎの枝で、小さな庵(いおり)を作るように言われました。人々はこの庵に住みこの間楽しみ祝うのです。子供たちはどんなにこの仮庵の祭りを喜んだことでしょう。一週間も緑色の庵に住み、わずかの葉に隔てられる星空のもとで寝るなんてどんなに楽しかったことでしょう。そして、周りにはあちこち友だちの寝ている緑の庵が見えます。

 しかし、こんな楽しい時に主を忘れてはいけません。最初の日と八日目は、聖い日として守り、民は皆神様を賛美するために集まりました。アロンと祭司たちは、これらの祭りの日には特別のいけにえを捧げることになっていました。人々が庵で楽しんでいる間、祭司たちは、民の持ってきたいけにえを捧げました。神様は、すべての人が携わらなければならない祭りの時は、すべての人が主に捧げ者を持ってこなければならない、むなし手であってはならないと命じられたのです。

 モーセは二つの美しい銀のラッパを作りました。アロンの息子である祭司たちがラッパを吹く時、すべての人は、幕屋の入り口に集まらなければなりませんでした。部族の長だけ集まればよい時は、アロンの息子たちは一度だけラッパを吹きました。厳かな祭りの日、それから、安息日の朝には、銀のラッパの柔らかな音が、朝の空気に響き渡り、神様を礼拝するように民を呼び集めました。
 この銀のラッパを一日中吹く特別の日がありました。これは、ラッパの日と呼ばれていました。
 神様はまた、民がカナンの地に落ち着いたら、六年間は土地を耕し、種を蒔き、収穫を取るが、七年目は、耕しも、種まきも収穫もしないで土地をそのまま放置し、土地を休ませるようにという定めを作られました。このことで民が神様に従うならば、六年目には、三年分の収穫を与えると約束されました。

 神様はまた五十年に一年を特別な年、ヨベルの年と定められました。この年も、種を植えてはなりませんでした。しかし、ヨベルの年は、土地を休ませるだけではありませんでした。これは自由の与えられる年でした。神様はイスラエルの民に、カナンの地に着いたら、おのおの部族に、土地の一部を与えると約束されました。その土地は、永久にその部族のものとなります。また、各部族は、与えられた土地を更に小さく、その部族の各家族に分割します。この土地は、永久にそれを始めに与えられた家族のものとなります。
 さて、ある家族が非常にお金に困るようになったとします。その場合、その土地は売ることができました。しかし、ヨベルの年がまわってくれば、この土地を買った人は、それをもとの家族に返さなければなりませんでした。神様はその土地を、一つ一つの家族に与えられたのですから、売られた土地は、また始めの持ち主に戻されました。

 ヨベルの年は、もう一つの理由もあって楽しい年でした。イスラエル人で貧乏になり、他人のために働かなければならなくなった場合、彼の雇い主は、その貧乏人を奴隷にすることはできませんでした。奴隷の場合のように、賃金を与えないで働かせることは出来ませんでした。主人は親切に、雇用人を扱わなければなりませんでした。そして、ヨベルの年が来ると、貧しい人は自由の身になったのです。ヨベルの年は、貧しい人には大変な祝福の年でした。五十年に一度しか回ってきませんでしたが、貧しい人々はそれを待ち望みました。ヨベルの年が近づくと、自分の土地をお金のある人に売った貧しい人々は喜びました。ヨベルの年になると、売った土地は再び自分のものになるのです。また、召使として、自分を金持ちの所に売っていた人は、また、自由の身になって自分の家に戻ることができました。こうして、貧しい人々はヨベルの年を待ち望みました。五十年が過ぎると、民はラッパの音の聞こえてくるのを待ち焦がれました。ラッパは静かな空に「カナン中に住んでいる人々に自由を宣言し、住んでいる者に自由を宣べ伝える」ものとして響きました。  くまだなみこ