2011年8月2日(火)救いのリアリティ

 ある日、玄関に一人の女性が…。紙袋には、真新しい聖書と賛美歌があり、唐突に「これ貰ってください」と。私は一瞬どうしようかと思いましたが、真剣な表情ですし「捨てられないので教会に来たのです」という女性の心の声を聴いたような気がしました。どんなきっかけで聖書や賛美歌を購入したのだろうか?どこかの教会に出席していたかしら?。自分の本棚に置かず、教会にということは何があったのでしょう?聖書に何を求めていたのでしょうか?いつかまた再会できるかもしれないと思いながら、そっと大切に預かっています。共に聖書を読む機会がやがていただけるでしょうか。

 さて、私たちは、共に集い、共に生きる時、喜びを感じますね。大好きな気の合う仲間たちや趣味のサークルでも。あなたがアウトドア派なら夏は海?いや山ですか。私は、今月中旬から被災地へのバスツアーに参加して東北を訪ねます。仙台教会で東北の皆さんと一緒にひとときを過ごします。大震災が起こってから大きく変わった日本。東北の皆さんと一緒にいる時間に、感じる多くのことがあると思います。共に祈り、共に語り合うひとときは、あっという間に過ぎ去るような気がしますがまた番組でお話しますね。

 さて、神様に救っていただいた!というリアルな喜びはどのように見出せるのでしょう?救いなんて自分勝手な思い込みで、現実のものではないと思ってしまっていますか?この世界とその中に住むもの全ては、神様によって創造されました(創世記1章)から、人間は本来、神様を礼拝しながら生きるように造られているのです(創世記2章)。人生の先輩たちは礼拝が一番の楽しみとおっしゃいます。

 私たちが共に集い礼拝する時、そこに深い安息と真実の喜びを見出すことができます。礼拝は生涯の終わりまでずっと続き、死を越えて、天国の祝福へと繋がっていきます。イエスさまは、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じるものは死んでも生きる。生きていてわたしを信じるものはだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(ヨハネ11:25)と語られ、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」(ヨハネ15:5)と大切なことを教えてくださっています。
 キリスト教会では、きっとリアルに生きて働くみことばの力があなた自身に迫ってくることでしょう。私は礼拝で、神様のみことばの迫力に圧倒されることがしばしばあります。みことばには力があります。神の言葉と共に生きることこそ人間にとって一番必要なことなのです。
 「礼拝的人生観」という言葉がありますが、日々神様を礼拝する時間を持ち続けることを実行するのです。息を吸うこと、それはみことばをいただくこと、礼拝で息を吐くこと、それは祈り、賛美すること、聞いたことがありました。我が家はリジョイスを使って朝一番のみことばと祈りの時を持ちます。礼拝は神様と人間の交流が起こります。日曜日の礼拝で、あなたも神様の愛に包まれてください。個人的に聖書を読むだけではなく、共に集い、共に生きる場所にいつか一歩を踏み出して恵みをいただいてくださいね。
 死に勝利したイエスさまと共に、様々の困難を乗り越え、自分らしく強く生き抜く人生がきっと神様から頂けます。神様が味方になってくださる人生は、なんと幸いなことかと実感しています。
 「あなたがたはキリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。」(1ペトロ1:8)  くまだなみこ