2010年7月9日(金)ヘブライ2章 救いの創始者


というのは、多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標であり源である方に、ふさわしいことであったからです。(ヘブライ2:10)

 創業者の労苦のことをよく聞きますが、キリスト者は救いの創始者であるキリストが私たちのために耐え忍ばれた苦難と労苦を忘れてはなりません。

 神の御子にとっては、人となられたこと自体が苦悩の始まりでした。誰からも真に理解されることがなかったからです。また主イエスは、罪人に取り囲まれて生きるなかで、罪の誘惑に陥ることはなく、律法を完全に守られました。

 そればかりか、救い主として神から求められたことは、完全に罪の償いをすることでした。そこには、妥協の余地は全くありません。「最後の1クァドランスを返すまで」(マタ5章26節)とありますように、私たちは自分自身の罪の負債の返済に1円1銭の不足もあってはなりません。主イエスは、この返済を完全に行うために、私たち一人ひとりの身代わりとなって十字架の上で神の怒りの杯を飲み干されました。それは、私たちを聖なる者とし、栄光の御国へと導くためでした。

 この主の御苦しみを覚えるとき、私たちの心は喜びと感謝に満たされます。ハレルヤ!