2010年8月3日(火)ゼカリヤ12章 憐れみと祈りの霊を注ぐ


わたしはダビデの家とエルサレムの住民に、憐れみと祈りの霊を注ぐ。彼らは、彼ら自らが刺し貫いた者であるわたしを見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ。(ゼカリヤ12:10)

 イスラエルの民の不信仰と、霊的な指導者の怠慢とを、まことに厳しくお叱りになった主が、ここでは一転して、ユダとエルサレムへの憐れみと救いを語り始められます。

 世界の全ての民が、こぞってユダとエルサレムを攻め、包囲しようとします。それに対し、神ご自身が堅固な盾となって彼らを守り抜く、と宣言されます。こうして遂にエルサレムは、悔い改めて神に立ち帰り、自分たちが刺し貫いたメシアを、心からの悲しみと痛みとをもって見上げようとします。主なる神ご自身が、彼らに憐れみと祈りの霊を注いでくださいます。祈りの霊は、まず悔い改めの実を結ばせるからです。

 あのペンテコステの日に、聖霊の恵みを受けた人びとは、ペトロの説教に心を刺し貫かれ、悔い改めへと導かれました。救い主を十字架につけて殺したのは、私たちの罪と咎のゆえです。神の憐れみによって救われた私たちこそ、「独り子」を刺し貫いた自らの罪を、深く心に刻むべきです。今なお、むしろ救われた今こそ、罪人の頭として謙遜にされ、祈りに生きていきましょう。