2010年11月5日(金)ローマ7章 なんと惨めな人間なのか


わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。(ローマ7:24-25)

 クリスチャンになる前のパウロは、厳しい律法の生活に打ち込んでいました。また、律法を重んじるあまり、人を見下し、人を裁き、人を責め続けていました。

 しかし、福音を知った今、パウロは、「わたしの内には善いものが一切宿っていない。わたしはなんと惨めな人間なのか」と言い切ります。パウロは、福音によって新たにされ、罪の赦しを受けたとき、律法が語る罪の根源を自分の内に見出しました。自分のしていることが分からないほど、罪がパウロの人間性と霊性を破壊しています(15節)。パウロは、クリスチャンになって初めて、罪に対して自由を失っている自分の惨めさに気付き、心から罪を嘆いています。

 そしてパウロは、神に感謝を表しました。救いのない惨めさではなかったからです。罪深い自分であっても、キリストの十字架によって何度でも立ち上がることができることを知ったからです。私たちも、自分の惨めさに打ち倒されることなく、感謝をもって良き生活に励みましょう。