2011年8月9日(火)列王下24章 歴史の中に生きて働く神の御手


彼(ゼデキヤ)はヨヤキムが行ったように、主の目に悪とされることをことごとく行った。エルサレムとユダは主の怒りによってこのような事態になり、ついにその御前から捨て去られることになった。(列王下24:19-20)

 ヨシヤ王の子ヨヤキムは、エジプトの王ファラオ・ネコによる傀儡王権です。バビロンの王ネブカドネツァルが、エジプトを打ち破ってパレスチナの覇権を手に入れると、ヨヤキムはバビロンに服属することになります。その中で彼は、反バビロン同盟を画策するネコの援軍を期待して、バビロンに反旗を翻します。そこでネブカドネツァルは、本格的な懲罰に乗り出し、王国は滅亡し、バビロン捕囚が始まります。聖書は、これらの背後に、主なる神の御手を見ます。バビロンの台頭と遠征は、神により「ユダを滅ぼすために彼らを差し向けられた」(2節)もので、ユダの罪を裁くためでした。

 ヨヤキム、ヨヤキン、ゼデキヤと王位は、代わります。しかし、主の目に悪とされることを行うことには、変わりはありません。歴史の渦中において罪は犯され、歴史は、罪の道の軌道修正が如何に困難であるかと教えています。

 「今」を生きる私たちは、主の目に悪を行うことを恐れ、日々悔い改め、御手の導きにすがります。