2011年12月14日(水)ゼファニヤ2章 苦しみに耐えることを求める


主を求めよ。
主の裁きを行い、苦しみに耐えてきた
この地のすべての人々よ。
恵みの業を求めよ、苦しみに耐えることを求めよ。
主の怒りの日に
あるいは、身を守られるであろう。(ゼファニヤ2:3)

 大国かぶれの王族たち、偶像まみれの住民たち。神から離れ、大国を頼りとするこうした心変わり甚だしい妻シオンを、夫ヤハウェはどこまでも追いかけ、連れ戻そうとなさいます。集まれ、恥を知らぬ国よ、判決が下る前に、主の燃える怒りの日が臨まぬうちに。一日一日は、もみ殻のように飛び去ってゆく。今すぐ悔い改めよと呼びかけられます。

 大国に無節操におもねるユダの王族も住民も、相手の力にあやかりたい一心でした。それは「わたしだけだ。わたしのほかにだれもいない」(15節)と驕る大国の高ぶりを身に帯びたいばかりでした。悲しいことに、神を偶像におとしめる者は、人間を神に奉ることになるのです。

 そこで主は預言者の口を通して語られます。主を求めよ、主の裁きを行え、恵みの業を求めよ、苦しみに耐えることを求めよと。偶像でも人間でもない、主のみを神とする民は、苦しみに耐えねばなりません。それはへつらいではなく、へりくだりをもって仕えることとなるのです。