2012年6月4日(月)エズラ9-10章 なお希望がある


エラムの一族のエヒエルの子シェカンヤはエズラに言った。「わたしたちは神に背き、この地の民の中から、異民族の嫁を迎え入れました。しかしながら、今でもイスラエルには希望があります。」(エズラ10:2)

 異民族との婚姻は、かつて祖先を偶像礼拝に導いた禍根であったので、遠ざけるべきだとエズラは考えました。ですからエズラは、その背信行為に再び染まってしまった神の民の堕落を嘆き、涙ながらに罪を告白し、身を伏せました。

 そのような彼の祈りに心を打たれた人が集まって、共に嘆き祈る会衆ができました(10章1節)。そして民は異民族の妻子との絶縁を決意し実行しました。これは、いつの時代にも肯定されるわけではありませんが、当時神が導いてくださった精一杯の悔い改めでした。

 そのなかで信仰の友が言った言葉が、私たちは大きな罪を犯してしまったが、なお「今でも…希望があります」です。神の前でまことの悔い改めがなされるなら、神はそれを決して拒まれません。涙ながらの祈りと行動を伴う悔い改めは、必ず、新たな希望へと導きます。

 放蕩息子を迎えて抱きしめてくださる神は、いつでもやり直しの機会を備えてくださいます。どのような中にあっても、私たちにはなお希望があります。