2012年8月15日(水)哀歌3章 なお待ち望む


苦汁と欠乏の中で
貧しくさすらったときのことを
決して忘れず、覚えているからこそ
わたしの魂は沈み込んでいても
再び心を励まし、なお待ち望む。
主の慈しみは決して絶えない。
主の憐れみは決して尽きない。
それは朝ごとに新たになる。(哀歌3:19-23)

 哀歌は、嘆きに満ちています。もうこれ以上にないほどの深い苦悩と悲しみのことばが幾重にも連ねられています。その哀歌のちょうど真ん中、中心部分に来ると、望みの言葉が突如として語られ始めます。真っ暗闇の中で、光と出会うのです。「再び心を励まし、なお待ち望む」なんと慰めに満ちた御言葉でしょうか。

 「わたしの魂は沈み込んでいても」は次のようにも訳されます。「あなたは必ず顧み、わたしの上に身を沈める」(左近淑訳)。

 神は、苦悩の中にいる人を決してお見捨てになりません。その人のところに行かれます。低く降ってきて、その身を沈めてくださいます。そのようにして、助け、救い上げてくださいます。この神のなさり方は、主イエス・キリストの十字架の死において現されました。だからこそ、どんなに深い悲しみに遭っても、私たちもなお耐えて待つことができます。「この哀歌の言葉に支えられて、わたしは立ち直りました」と語っておられた方を思い出します。 ロマ11章22節、口語訳)。