2013年1月19日(土)マタイ8章 わたしは願う、清くなれ


一人の重い皮膚病を患っている人がイエスに近寄り、ひれ伏して、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい清くなれ」と言われると、たちまち、重い皮膚病は清くなった。(マタイ8:2-3)

 重い皮膚病の人は、宗教的に汚れた人と思われ、彼と接触する人も汚れると思われていました。

 この病人に、主イエスは手を伸ばして触れられ、汚れた状態の彼をそのままに受け入れてくださいました。御自分が汚れることを恐れない、驚くべき恵みです。

 その上で、主イエスは彼に「よろしい。清くなれ」と言われました。「よろしい」は、「わたしは願う」という言葉です。主は、汚れたままの彼を受け入れるお方でありつつ、彼が汚れから清められることを願い、清くしてくださるお方なのです。

 この記事は、山上の説教(5章〜7章)のすぐ後に置かれています。山上の説教を読むとき、私たちは、自分の汚れに気づきます。その自分とは山上の説教で主が求められる清さとはかけ離れた者なのです。

 その私たちを汚れたままで受け入れつつ、主は「わたしは願う、清くなれ」と言ってくださいます。十字架に私の汚れを引き受けてくださったお方が、私を清くしてくださるお方なのです。