2013年5月14日(火)エゼキエル20章 主に答えていただくために


「人の子よ、イスラエルの長老たちに語り、彼らに言いなさい。主なる神はこう言われる。お前たちはわたしの意志を問うために来たのか。わたしは生きている。お前たちが尋ねても、わたしは答えない、と主なる神は言われる。」(エゼキエル20:3)

 イスラエルの長老たち数人が主の御心をエゼキエルに求めて来たとき、主は「わたしは答えない」と言われました。いったいこれはどういうことなのでしょうか。

 求めて来る者に主が答えないというのは驚くべきことですが、理由ははっきりしていました。それは32節で指摘されているように、彼らが偶像礼拝を行う者たちに心を惹かれていたからです。そのような思いを持ちながら主に願っても、聞き入れられるものではありません。

 主はかつて、出エジプトの際に、6節のように「乳と蜜の流れる地に…導く」と約束されました。そのときにも、「偶像によって自分を汚してはならない」(7節)と厳しく命じられていました。

 求めているものが適えられないのは辛いことです。そのようなときこそ、どなたに願っているのかを改めて問うべきです。「願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです」(ヤコ4章3節)。私たちは、動機をも見抜かれる真の神に求めています。