2014年12月19日(金) 1テサロニケ2章 宣教の動機としての愛


わたしたちはあなたがたをいとおしく思っていたので、神の福音を伝えるばかりでなく、自分の命さえ喜んで与えたいと願ったほどです。あなたがたはわたしたちにとって愛する者となったからです。(1テサロニケ2:8)

 私たちは誰でも宣教するように促されています。何時でもどこでも福音を伝え、神を証しする生活を送りたいと願っています。

 なぜ私たちは宣教することを求められるのでしょうか。主イエスの大宣教命令は宣教の根本的な動機です。神が求めておられるから、神に喜んでいただくために私たちは全世界のすべての人びとにキリストを伝えます。

 パウロの宣教はまさに広く異邦人に向かいました。けれども、その宣教は無作為にばらまかれたのではありません。ここでパウロは自分の宣教が特にテサロニケの人びとに向けられていることを語ります。なぜなら、パウロは彼らを「いとおしく思」い、彼らは「愛する者となったから」です。ここに宣教の動機としての愛があります。

 私たちが誰かに福音を伝えようとする時、そこにはその人をいとおしく思う愛があります。見ず知らずの関心もない人に具体的に福音を伝えることはできないからです。私たちが福音を語る最も具体的な動機は、「誰かをいとおしく思う」というそのような愛の思いから出てきます。