2015年4月3日(金) マタイ26章 躓く人は、躓かない


イエスは言われた。「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」ペトロは、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言った。弟子たちも皆、同じように言った。(マタイ26:34-35)

 聖書は、読者を躓かせる物語の宝庫です。なぜ、ペトロの裏切りのような格好悪い出来事を公にするのでしょうか。それは、人間の罪深さを真正面から課題にし、それを克服する神の偉大な物語を際立たせるためです。

 ペトロをはじめ弟子たちは、特別臆病な人たちだったのでしょうか。違います。彼らは、自分の献身と信仰心に自信を持ち、死ぬ覚悟すらできていました。それなのに、なぜ裏切ってしまったのでしょうか。その背後には、主イエスが、救い主として思い描いた通りの行動をなさらなかった、という思いがあったのかもしれません。

 信仰とは、自分の信仰的な願いや理想を主イエスに当てはめることではありません。むしろ、その自己中心の偶像崇拝の思いを、繰り返し壊していただくことです。

 その意味で、罪人である私たちが主イエスに躓くことは当然のことなのです。しかし、主イエスは、そのように躓く者を見放されません。何度でも、弱い私たちをあるがままに受入れ、赦し、真の信仰へと導いて立ち上がらせ、そればかりかご自身の栄光のために用いてくださるのです。