2015年4月27日(月) イザヤ28章 安息と憩いの場


主が彼らに言っておかれたことはこうだ。
「これこそが安息である。
疲れた者に安息を与えよ。
これこそ憩いの場だ」と。
しかし、彼らは聞こうとはしなかった。(イザヤ28:12)

 28章から33章まで、また一つのまとまりになります。歴史の上ではヒゼキヤ王の初期に北イスラエルはアッシリアによって滅ぼされました。1〜4節はその少し前に警告しておいた言葉で、これが事実上実現しました。これをこの章の最初に持ってきて、南ユダの祭司や預言者に対して、イザヤはあなたがたもまた同じようになると語っています。

 しかし、祭司や預言者はイザヤの語ることをからかっています。イザヤはせいぜい子どもに聞かせているようなものだと彼らは馬鹿にしています(9節)。これに対してイザヤは、主は異国の言葉のように意味がわからない仕方で民たちに語るようになると警告します。なぜなら、かつて主は彼らを安息と憩いへと招かれたにもかかわらず、彼らは聞こうともしなかったからです。

 主を正しく捉えるところにこそ安息があります。これが主からのプレゼントです。聖書はこの安息へと私たちを導いてくださる方こそ、主イエスであると語ります(マタ11章28、29節)。ここにあなたも招かれているのです。