2015年5月20日(水) 申命記3章 聞かれない祈り


わたしは、そのとき主に祈り求めた。「…どうか、わたしにも渡って行かせ、…見せてください。」
しかし主は、あなたたちのゆえにわたしに向かって憤り、祈りを聞こうとされなかった。主はわたしに言われた。「もうよい。この事を二度と口にしてはならない。」(申命記3:23-26)

 荒れ野を旅し、諸国の王からの攻撃に勝利して、ついにピスガの山麓に着いたとき、モーセは神に祈ります。「わたしもまたヨルダン川を渡って、約束の地に踏み入らせてください」と。しかし、主なる神はこのときのモーセの祈りを聞かれませんでした。そればかりか、これ以上、祈り願うことをも神は固く禁じられます。一体、これはどういうことなのでしょうか。よくわかりません。ただ神のみ知っておられることであり、神のよしとされたことという他ありません。

 内村鑑三の語った次のような言葉を思い出します。「モーセの祈祷が聴かれず、パウロも聴かれず、イエスご自身もまた聴かれなかったのである。依って知る、祈祷の聴かれないのもまた悪いことではないことを、…然り、祈祷の聴かれないことがその真に聴かれたことである。…聴かれざる祈祷これありて神がわかるのである」。

 聞かれない祈り、この経験が祈る人を練り清めます。ところで、私たちは、主から禁じられるまで祈ったことがあるでしょうか。自らの祈りの貧しさを覚えつつ、なお祈りに励みたいのです。