2015年12月15日(火) イザヤ58章 礼拝と正義


わたしの選ぶ断食とはこれではないか。

飢えた人にあなたのパンを裂き与え
さまよう貧しい人を家に招き入れ
裸の人に会えば衣を着せかけ
同胞に助けを惜しまないこと。(イザヤ58:6-7)

 断食という宗教的行為は、今日のキリスト教会とキリスト者には極めて疎遠な習慣です。一部のキリスト教会では、信仰生活の生きた慣行として重んじられていますが、多くの場合、主に宗教的な実り・敬虔の実行に焦点を合わせていると思われます。

 イザヤが同胞に求める断食は、社会的な不義や不公正を是正するための具体的な行動を呼びかけている点で注目されます。断食に、宗教的な偽善や自己満足が紛れ込みやすいことは、主イエスも指摘しておられる通りです(マタ6章16節以下)。

 断食が、祈りと悔い改めの徹底という、宗教上の目的をもつことは当然です。しかし、社会的な意味を考慮しないまま行われる断食は、少なくともイザヤのような預言者の理解からほど遠いと言わねばなりません。断食は、自分のパンを貧しい隣人と分かち合うこと、社会的な不公正の谷間で苦しむ人々を助けることです。礼拝の恵みと正義の要求は分離されません。分離されがちな二つを結び合わせるとき、教会は「わたしはここにいる」(9節)という主の声を鮮明に聞く集いとされるはずです。