2015年12月16日(水) イザヤ59章 ただ恵みにより救いが


主は正義の行われていないことを見られた。
それは主の御目に悪と映った。
主は人ひとりいないのを見執り成す人がいないのを驚かれた。
主の救いは主の御腕により
主を支えるのは主の恵みの御業。(イザヤ59:15-16)

 イスラエルの救いは、現実の歴史の中で、さまざまな曲折を経ます。捕囚からの解放が実現しても、それがすぐさま民に平和と安定をもたらすわけではありません。行き詰まりと閉塞の中で、人々の心にきざすのは、「主の手が短くて救えない」という神への不信感です。まことの平和と解放を妨げている真実の原因を見ず、御手の業に不足を言い立てるのがアダム以来の人間の性癖です。

 救いに至る展望が容易に開けない現実は、神御自身の嘆きでもあります。神は、人間の心に潜む果てしない罪と背きに心を痛められるお方です。神は、愛と憐れみに打ち震えながら、救いの道を探られます。神の全能は、心情も驚きもない機械的な力ではありません。愛し、悲しみ、裁き、憤ることにおいても、神は全能の主であられます。

 民の悲惨を見ながら、誰一人執り成す者のない現実に、神は驚きを隠しません。救いは、ただ神の一方的な決意と献身による恵みです。独り子イエスを賜るほどに世を愛された神。神は、独り子をベツレヘムの飼い葉桶に横たえ、ゴルゴタの十字架にまで送られました。感謝します。