2017年4月26日(水) ローマ6章 キリストと共に


わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、…もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。(ローマ6:5-6)

 パウロはこのところで「古い自分」ということを言います。それはどのようなものでしょうか。私たちはアダム以来、生まれたままでは罪に生きており、その実態は「不従順」にあるとパウロは言います(ロマ5章19節)。それは神に従うことができず、そもそも神を知ることができないゆえに、神なしで自ら善悪を判断して立派に生きていくことができるとする生き方です。

 しかし、洗礼を受けた時にそのような一切を判断するわたし―すなわち「古い自分」は「キリストと共に葬られ」たというのです(同6章4節)。パウロはこのことについて、私たち一人ひとりに「それともあなたがたは知らないのですか」と問いかけています(同6章3節)。それは当然ながら、あなたがたは知っていると言いたいからです。では私たちは何を知っているのでしょうか。それは、私たちが、きょうこの時も、明日も、地上の具体的な人生の中で、罪の奴隷にならなくてもよいということです。

 洗礼を受け、キリストと一体となった私たちは、もはやキリストと別の存在ではなく、いつでもキリストとつながっています。それゆえに新しい復活の命に生きているのです。