2018年5月22日(火) イザヤ53章 私たちのための僕の苦難


彼が刺し貫かれたのは
わたしたちの背きのためであり
彼が打ち砕かれたのは
わたしたちの咎のためであった。
彼の受けた懲らしめによって
わたしたちに平和が与えられ
彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。(イザヤ53:5)

 イザヤ書の後半には、繰り返し「僕」が登場します。とくにこの章では、「わたしたち」の身代わりになる僕の姿が描かれています。新約時代に生きる私たちは、この「僕」に救い主イエス・キリストの姿を見ることができます。同時にこの「わたしたち」に自分の姿を見ることができます。私たちの罪のために、主イエスは「刺し貫かれ」、「打ち砕かれ」、「懲らしめ」られ、「神の手にかかり」、十字架で裁かれたのでした(8節)。

 申命記24章16節にこうあります。「父は子のゆえに死に定められず、子は父のゆえに死に定められない。人は、それぞれ自分の罪のゆえに死に定められる」。人は、自分の罪のゆえに死に定められるのであって、たとえ親子でも身代わりは駄目だと神は定めておられます。

 しかし、神は、私たちを救うために、ご自分の定められた掟を越えて、御子を身代わりにするという決断をしてくださいました。ですから、これはもはや掟や律法に基づくのではない、ただ一方的な神の恵みによる出来事なのです。私たちの身代わりとして献げられた主イエス・キリストを深く黙想しましょう。