2018年6月8日(金) イザヤ64章 父のもとに帰ろう


しかし、主よ、あなたは我らの父。
わたしたちは粘土、あなたは陶工
わたしたちは皆、あなたの御手の業。
どうか主が、激しく怒られることなく
いつまでも悪に心を留められることなく
あなたの民であるわたしたちすべてに
目を留めてくださるように。(イザヤ64:7-8)

 63章の7節から「神に嘆き訴える共同体の祈り」が始まり、この章の終わりまで続きます。イスラエルが陥っていた罪のゆえに、誰も神を呼ばなくなり、神ご自身も顔を隠しているかのように思われました。

 このような中で、「しかし」と語られます。この言葉は、パウロが使う「しかし、今や」に似て、向きがひっくり返るような強い思想の転換を意味しています(ロマ3章21節等参照)。「陰府のもっとも深いところで神を見いだし、暗黒の中で光がある」とたとえる人もいます。

 神を見失ったと感じて、神が隠れてしまわれたと思えるとき、人は絶望してしまいます。けれども、ここで覚えておくべきことがあります。神こそが唯一の出口です。神の怒りを感じたとしても、神に立ち帰ることがただ一つの解決なのです。

 虫が良すぎる願いであると思うかも知れません。たとえそう思われたとしても、神こそが父であり、創造主であり、贖い主であられますから、父のもとに帰ることが解決となるのです。そのような人を、神は喜んでくださいます。