BOX190 2004年2月4日放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 「救われた人が自殺した場合は?」  N・Yさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオをお聴きのあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は長野県にお住まいのN・Yさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

 「突然のお手紙お許しください。番組、いつも楽しみに拝聴させていただいている一人です。これからも、主が山下先生を貴く用いてくださり、番組が祝福されますように、心よりお祈りしています。
 さて、質問を1つ。尋ねるわたしの側にしても、回答くださる側のご担当者の側にしても、気重なものですが、あえてお聴きすることにいたしました。
 確実に救われた人、イエス様を主として受け入れた人が、もし、何らかの形であれ、自殺してしまった場合、その人は、やはり天国へいけるかどうか、というのが質問です。
 この問いは前々からもっていたのですが、最近あったあることがきっかけで、ぜひ知りたくなったものです。よろしくお願いします」

 ということなんですが、N・Yさん、お便りありがとうございました。この何年間か、日本での自殺者が年間3万人を超えるという事態が続いていることを思うと、「残念」という言葉では言い表せないほど心痛む思いがいたします。
 この数字のうちの何人がクリスチャンなのか、わたしは調べたことがありませんが、しかし、クリスチャンといえども、絶対に自殺はしないということは言い切れないという事実は知っています。
 おそらく、N・Yさんもそういう状況に直面して、その事実をどう受けとめるべきなのか、心を悩ましていらっしゃるのではないかと想像いたしました。
 キリスト教と自殺の問題について、この番組でも以前取り上げたことがあると思いますが、古くから考えられてきたことは、自殺も殺人罪と同じ罪として考えられてきたということと、自殺は自ら悔い改めるチャンスを奪ってしまうために、自殺という殺人罪を犯した人は決して救われないということです。もちろん、これは1つの聖書の読み方であると思います。しかし、その場合、「自殺」という言葉の定義が問題になります。本人の意思により、故意に自殺の道を選んだ場合だけを自殺と定義するのか、それとも病気のために発作的に自殺に走る場合のように、厳密に本人の意思とはいいがたいものも自殺に含めて考えていいのか、そういう問題があります。
 古来よりキリスト教の中で考えられてきた自殺というものは、そういう区別は厳密になされていませんでした。ですから、古来から考えられてきた自殺に関するキリスト教の考えをそのまま機械的に当てはめて、今回の質問に答えるわけには行かないと思います。

 では、どう考えたらよいのか、一曲聞いてから、後半で扱いたいと思います。

==放送では、ここで1曲==

 さて、本当に救われた者が自殺をした場合、天国にいけるのか、という問題を取り上げています。
 結論を先に言ってしまえば、このようなことは神の領域に関わることですから、わたしたちが答えられる問題ではありません。そもそも、その人が本当に救われた人であるかどうかというのは、厳密には人間の目には隠されています。仮にその人が救われた人だとして、果たして、その死がほんとうに自殺と呼ぶに価するものであるかどうか、つまり、自殺することが本当に本人の意思に基づいた決定であるのかどうか、それもわたしたちの目には隠されています。つまり、あくまでも、本当に救われた人が自殺をした場合という仮定のもとでのお話になってしまいます。残念ながら、そのような実例が聖書には記されていませんから、やはり、答えようがありません。敢えて、例を挙げれば、自ら死の道を選ばれたイエス・キリストぐらいしかありません。無理やりそこから結論を引き出せば、本当に救われた人で、なおかつ、自分から死を選んだ場合であっても、救われるという可能性はゼロではないということです。
 しかし、このような例を引き合いに出されたとしても、おそらく、期待していた答えにはならないだろうと思います。
 そこで、なぜ、わたしたちにとって、このような問いが意味を持つのか、ということを考えてみたいと思います。それは2つの場合が考えられると思うのです。
 1つは、クリスチャンである人が、自殺を考えている場合です。その人は、「自殺すれば天国にいけない」と聞けば、ひょっとしたら自殺を思いとどまるかもしれません。逆に、「自殺をしても天国にいける」と聞けば、自殺を躊躇する理由がなくなってしまうかもしれません。もし、そういう事情からこの質問が出ているのだとすれば、この問題には答えたいという思いにはなれません。どんな事情であれ、自殺を思いとどまって欲しいと思います。
 もう1つのケースは、クリスチャンである家族の1員が、自殺をしてしまったというケースです。これは、残された家族にとってはとても動揺してしまうケースです。
 人の死はどんな死であっても悲しいものですが、それでも、聖書が与える慰めによってその悲しみは克服できるものです。
 しかし、自殺した人の死に関して、いったいどこに慰めを求めたらよいのか、残された家族にとっては大きな悩みです。救われた者が自殺をしてしまったら、いったい天国へいけるのかどうか、という疑問は、そういう状況の家族にとっては切実な問題です。
 話をごまかすわけではありませんが、最初にも述べたとおり、この答えは、神様だけがご存知のことで、人間には答えることが出来ません。しかし、人間であるわたしたちにできることは、結局はその苦しみの中にある家族と共に悲しみ、苦しみを分かち合い、人間の思いをはるかに超えた神の愛を共に信じて、これからの人生を可能な限り共に生きていくことなのだと思います。
 必要なのは、この問いに対する明確な答えではなく、これからの人生を残された者たちが希望をもって生きていくための慰めと励まし以外の何ものでもないと思うのです。
 もし、N・Yさんがそのような苦しみの中にあるご家族が身近にいらっしゃるのでしたら、是非、そのご家族とともにいてあげて欲しいと思います。

Copyright (C) 2004 RCJ Media Ministry All Rights Reserved.