BOX190 2004年3月10日放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 「偶像は破壊すべきですか」  ハンドルネーム・タムさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオをお聴きのあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネーム・タムさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

 「山下先生、いつも番組を楽しく聴いています。さて、素朴な疑問で笑われてしまうかもしれませんが、心に引っかかっていることがあり、質問してみようと思いました。十戒の中に偶像にひれ伏してはならないという教えがありますが、旧約聖書を読んでいると、文字通り偶像を破壊する場面があちこちで見受けられます。こういう場面を読んでいると、何年か前、文化遺産である石仏を破壊した過激な宗教的政治的団体のことを思い出してしまいます。
 実際、クリスチャンの人にとってあのような過激な行動はどういう風に感じられるのでしょうか? 偶像は徹底的に排除すべきであるという立場を究極まで推し進めるとすれば、あのような文化遺産の破壊にまで行ってしまうのも、もっともなような気がしてしまいます。
 しかし、昔の時代のことはいざ知らず、教会が偶像を破壊したというようなニュースは聞いたことがありません。それは我慢しているだけのことなのでしょうか? それとも、妥協しているのでしょうか? それとも、他の理由があって、偶像を破壊しないのでしょうか?
 その辺のところをよろしくお願いします。」

 ということなんですが、タムさん、メールありがとうございました。タムさんのメールを読んでいて、こんなことを思い出しました。それはわたしがまだキリスト教を信じて間もない頃のことでした。毎週日曜日の夜、宣教師の先生と一対一で聖書の学びの時間を持っていました。そのとき旧約聖書の士師記を学んでいましたが、丁度、ギデオンのお話のところに、ギデオンがバアルの祭壇を破壊し、アシェラ像を切り倒す事件が出てきます。
 その話を学んでいた時に、宣教師の先生がこんなエピソードを語ってくださいました。
 ある宣教師の家族が日本に来て間もない頃、その宣教師のお子さんが神社のお社に置いてあった狐の像を壊してしまったというのです。もちろん、その子はギデオンの話に感化されて、偶像を壊すことは正しいことだと思っていましたから、悪びれもせずにお父さんにそのことを報告したそうです。話を打ち明けられて驚いたその子の父親である宣教師は、すぐさま息子を連れて謝りに行ったそうです。
 確かに旧約聖書のお話を聞かされてきた子供にとっては、偶像が祭られていることは許せないことだったに違いありません。しかし、それをそのまま自分の行動に適応してしまうのはやはり問題があるといわざるを得ません。残念ながらこのエピソードはここで終わってしまって、果たして、その宣教師が自分の息子にその後なんと言ってキリスト教の真理を教育したのか興味のあるところです。 

 さて、ここで一曲聞いていただいてから、この問題について考えてみたいと思います。

 ==放送では、ここで1曲==

 クリスチャンが偶像をどう扱うのか、という問題について考えています。確かに聖書の中では偶像に過ぎない他の神々を礼拝することも、また、真の神を偶像を通して礼拝することも、どちらも禁じられていることは言うまでもありません。そして、旧約聖書に登場するギデオンのように、神の命令を受けて、実際に他宗教の施設を破壊し、偶像を切り倒した人物もいます。また旧約聖書に登場するヨシア王の時代の宗教改革では、律法の教えに従って主の神殿からすべての偶像が取り除かれました。
 では、我々クリスチャンも同じように偶像の破壊と除去に力を注ぐべきかというと、単純にそれを実行に移すべきではありません。
 先ずクリスチャンにとっての戦いは、血や肉の戦いではなく霊的な戦いです(エフェソ6:12)。その意味で偶像は文字通りの偶像ではなく、むしろ、わたしたちの心を真の神から離れさせてしまうすべてのものを含みます。その場合、第一義的には、わたしたちの心こそが問題であって、目の前にある物体が問題であるわけではありません。外面的な形を整えることが最初ではなく、わたしたちの心のありようこそが整えられなければなりません。なぜなら、物体としての偶像がなくても、地位や名誉やプライドといった観念的なものが偶像となる場合もあるからです。
 しかし、時と場合によっては、いわゆる偶像そのものを取り除いたり、廃棄したりすることが必要である場合もあります。たとえば、いくらもう信仰しないからといって、いつまでもお守りやお札を持っているのは、やはり自分自身の信仰からいって意味がないからです。また、誰かをつまずかせないためにも、いつまでもそのようなものを所持すべきではないでしょう。
 しかし、これとても、常識的に考えて、処分できるのは自分の所有物だけであって、いくら自分の信仰の妨げになるからといって、他人の所有物まで勝手には処分できるはずはありません。
 ただ、自分の所有物ならばどうすることも勝手かというと、それもまた常識の範囲内の問題だと思います。たとえば、文化的に価値のある像や絵画を、自分のものだからどうしようが勝手だと考えるのは短絡的です。本当に文化的に価値のあるもので、自分にとって必要でないと思うのであれば、美術館や博物館に寄贈するという方法もあります。

 さて、最後にあまり現実的な話ではないかもしれませんが、クリスチャンの政党が政権を握り、国民の大半もクリスチャンで、国内にあるあらゆる偶像を廃棄しようというような運動が起った場合、わたしはそのような運動に反対すると思います。その理由は、人間の営みの歴史をそのまま残しておきたいという思いからです。それは善きにつけ悪しきにつけ、人間というものを理解し、こらからの歩みを考える上でよりよく生かしていきたいと願うからです。
 聖書の周辺世界の考古学的な発掘研究が今でも進められていますが、せっかく埋もれてしまった偶像を掘り起こすのはもってのほかだと考えるのは愚かしいことです。堀り起こされた神々の像を見ることで、当時の人々が何を考え何を信じていたのかがよりよく理解できます。そして、聖書の世界が戦ってきたその相手がどんな相手であったのかがいっそう明らかになるからです。
 それと同じ理由で、文化的な遺産は将来の人々のためにも残しておくべきだと考えます。

Copyright (C) 2004 RCJ Media Ministry All Rights Reserved.