BOX190 2004年3月24日放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 「怒ってはいけないのですか?」  匿住所・匿名希望

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオをお聴きのあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は匿住所・匿名希望の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

 「山下先生、いつも番組をありがとうございます。先生の落ち着いた声を聞いているとホッとした思いになりります。
 さて、きょうは質問があってメールしました。恥ずかしい話ですが、わたしはすぐイライラしてしまい、怒りを爆発させてしまいます。聖書には『怒ってはならない』と言うような言葉があちこちに記されていますが、その言葉を聞くたびに自分を反省してしまいます。しかし、その反省の気持ちも長くは続かず、また怒りの気持ちがふつふつと湧いてきてしまいます。
 これはわたしの性格の問題かもしれませんが、性格を変えることができるものから、今すぐにでも穏やかな自分になりたいです。
 いったい、どうしたらこんな自分から解放されるのでしょうか。アドバイスよろしくお願いします。」

 ということなんですが、お便りありがとうございました。怒りっぽい自分、すぐにイライラして怒りを爆発させてしまう自分から、何とか解放されたいと望んでいらっしゃるのですね。
 先ず簡単ですが、怒りについて聖書の教えを見ておきたいと思います。お便りの中にもありましたが、「怒ってはならない」と言う教えは、聖書のあちこちに見受けられます。コヘレトの言葉の七章九節に「気短に怒るな。怒りは愚者の胸に宿るもの」とあります。主イエス・キリストも「兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける」とおっしゃっています(マタイ5:22)。
 他にも怒ることを戒める言葉は聖書の中にたくさんありますが、反面、神様ご自身の怒りについても聖書には数限りなく出てきます。聖書の中で誰が一番怒っているかというと、それは神様ご自身だといっても言いすぎでないほど神の怒りについての言及がたくさん出てきます。
 主イエス・キリストも怒ったことがあります。イエスの問いかけに答えようとしない人々を怒って見回し、その頑なな心を悲しまれたとマルコ福音書には記されています(マルコ3:5)。
 怒るといっても、神様でさえ怒るのですから、それが一概にいけないことだとは言い切れない面もあります。要はどんなことで怒るのか、どんな風に怒るのか、何のために怒るのか、その一つ一つが問題なのだと思います。意外に思われるかもしれませんが、聖書には「怒れ」と言う勧めの言葉もあります。ただし、「怒ることがあっても、罪を犯してはならない」といわれています。「日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません」とも言われます(エフェソ4:26)。

 それでは、後半でもう少し詳しく見てみたいと思います。
 その前にここで一曲聞いていただきたいと思います。

 ==放送では、ここで1曲==

 怒ることについてのご質問を取り上げています。一口に怒りといっても、どんなことで怒っているのか、それは大切なことだと思います。
 ちなみに、怒りについての日本語はとても豊富です。
 いかる・憤る・腹立つ・むくれる・ふくれる・むかつく・いきり立つ・息巻く・癇癪(かんしやく)を起こす・立腹する・激怒する・憤慨する・憤激・義憤、などなど、どんなことで、どう怒るのかそれぞれの単語のあらわすニュアンスは違っています。
 神の怒りはどちらかと言うと、義憤…正義に外れたことを憤る怒りであると思います。このような怒りは禁じられるべきことではなく、むしろ、こういう怒りの感覚はもっていなければならないことかもしれません。そうでなければ正義は強い者によって踏みにじられ、弱い者たちがないがしろにされてしまうからです。
 もっとも、正義のための怒りなら、どんな怒り方をしても構わないかというと、そうではありません。主イエス・キリストが「兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける」と山上の説教でおっしゃったのは、「殺すな」という戒めに関連してでした。どんなに正しいことでも、兄弟を死に至らしめるような動機で怒ることは正しくありません。怒りは争いを生み(箴言30:33)、争いはしばしば相手の存在を否定してしまうからです。怒りがあらたな罪を誘発するようであってはなりません。
 では、何のために怒るのか。それは人間が正しく生きるため、また人間が構成する社会が正しく機能するためです。怒りにも愛によって動かされる動機が必要です。
 もし、こういう怒りであるならば、聖書はこれを決して禁じたりはしません。怒る対象、怒りの表しかた、怒る動機と目的が理にかなっているならば、むしろ遠慮なく怒ることが大切かもしれません。

 もっとも、ご質問いただいたのは、こういう種類の怒りではなく、もっと人間的な怒りなのだと想像します。
 人間が怒るのは、基本的には、何かから外れた行為や思いに対して、怒りが爆発するものです。その「何か」とは大抵は「常識」という基準です。常識外れを怒らない人はすくないでしょう。しかし、自分の常識があまりにも自分勝手な常識だとするならば、その人は怒りっぽい人になってしまいます。他の人の行動が全部自分の気に障る行動になってしまいます。もし、そのためにイライラが募っているのだとすれば、自分自身の常識のセンスを磨く必要があるのだと思います。

 もっとも、自分の常識が狭すぎて、相手にいらだつということよりも、むしろ相手の常識の方がおかしくて、腹立たしい思いになるという方が圧倒的に多いことことだと思います。
 もちろん、そのような場合には憤りを感じるのは当たり前のことですが、しかし、そこでも、怒りや憤りをコントロールすることはできると思います。それは怒りの行き先に展望を持つことです。その怒りが相手の徳をたてあげるのに確実に役立つ見通しがあるならば、大いに怒るべきです。しかし、そうでないなら、無意味な争いやストレスを避けるために、怒りを押さえるべきです。それは諦めるということではなく、キリスト教的には怒りを神に委ねるということです。自分で怒りの向かう方向が見えないならば、神にそれを委ねることは大切なことではないでしょうか。

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