BOX190 2004年8月4日放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 「伝道は苦手です」  神奈川県  ハンドルネーム・クリームさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオをお聴きのあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネーム・クリームさんからのご質問です。お便りをご紹介します。

 「はじめまして。いつも番組をインターネットで楽しく聞いています。聞き取りにくかった個所をホームページでじっくりと読むことも出来るのでとても役に立っています。
 ところで、わたしは洗礼を受けてから年数ばかりが経ちますが、どうも伝道するのが苦手です。正直のところ、今まで誰一人として、教会へ導いたことがありません。伝道をする気持ちがないのではなく、ついつい相手のことを思うと、言い出しにくくなってしまうのです。
 まわりで何人も個人伝道で教会へ人を連れてくる人を見ると、羨ましい気持ちになったり、素直に喜べなくなったりもします。
 こういう自分ではいけないと思いながら、しかし、どうしたらよいのかわからず、悶々とした思いでいます。 聖書は伝道についてどう語っているのでしょうか。良いアドバイスがあれば、教えてください。

 ということなんですが、クリームさん、いつも番組を聞いていてくださってありがとうございます。個人伝道が得意でないと肩身が狭くなってしまうというのは、ちょっと悲しいことですね。教会によるのかもしれませんが、きっとクリームさんが気にしているほど、まわりの人たちはクリームさんのことを伝道しない人だなどとは思っていないのではないかと思います。
 そもそも、そんな気持ちになってしまうのには、伝道についてのいくつかの誤解が、なんとはなく、教会員たちの心の中に出来上がってしまっているためではないかと思います。そのいくつかの誤解というのは、わたしが思いつくだけでも、3つほどあるように思います。その1つは「なぜ伝道をするのか」という伝道の根拠に関わる問題です。あるいは、伝道の動機は何であるかという問題にも関わっています。2つ目は「誰が伝道をするのか」という伝道の担い手に関わる問題です。そして、3つ目は「どう伝道をするのか」という伝道の方法についての問題です。

 まず、はじめに「なぜ伝道するのか」ということですが、わたしたちが伝道をする根拠として、しばしば引用されるのは、マタイによる福音書の28章19節20節に記された復活のイエス・キリストの言葉です。

 「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」

 これはしばしばグレートコマンド(大命令)とも呼ばれる有名な言葉です。キリスト教会が世々にわたって倦むことなく福音の宣教に励んできたのは、この復活のキリストの命令に従ってきたからです。ですから、伝道しない教会があるとすれば、それはキリストの大命令にそむく教会と言うことになってしまいます。

ところで、なぜ伝道をするのかという問いは、伝道の根拠を尋ねる問いですが、伝道の動機を尋ねる時にも、同じ問いの言葉を使って尋ねます。
 伝道の動機は何かということだとすれば、もちろん、それが「キリストによって命じられたことだから」という動機で伝道をする人もいるでしょう。しかし、「キリストの命令なのだから伝道すべきだ」という動機付けで伝道をしているのだとしたら、それはとても大きな誤解です。伝道の動機は隣人を愛する隣人愛からでているといってもよいかと思います。相手を思う気持ちから、福音を述べ伝えるのでなければ、単なる福音の押し売りになってしまいます。相手を愛すればこそ、時と機会と場所に注意を払いながらふさわしく伝えることが必要なのだと思います。そういう意味では、相手のことを思ってなかなか福音を語る機会を見出せないでいるのと、伝道をしないというのとでは同じことでは決してありません。確かに聖書には「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい」(2テモテ4:2)とありますが、それは相手の気持ちを無視してでも伝道しなさいとという意味ではありません。

 2番めの誤解は「誰が伝道をするのか」という伝道の担い手に関する誤解です。厳密な意味らか言えば、キリストの大伝道命令を授かったのは、イスカリオテのユダを除く11人のキリストの弟子たちでした。もちろん、後のキリスト教会の歴史を見れば明らかですが、福音の伝道をしたのはこの11人に限定されているわけではありません。教会はパウロとバルナバを遣わして、異邦人たちの伝道に励みました。あるいはアキラとプリスキラ夫妻のように、個人伝道に励んだ人もいました。しかし、それが個人の伝道であったとしても、教会と無関係のはたらきではありませんでした。その働きの実はキリスト教会全体の実りだったのです。そういう意味で、伝道の真の担い手は教会ということが出来ると思います。教会としてどういう伝道をしているのか、そのことが大切です。教会には直接に宣教の業に携わる人もいれば、その働きを後方で支援するそういう人もいます。そういう教会全体としてどういう伝道の働きが出来たのか、そのことが見落とされてはいけません。クリームさんが個人伝道で一人も教会に人を導けなかったとしても、教会全体としての伝道の業にクリームさんの賜物がどのような面で関わることができたのか、それを正しく見る必要があると思います。
 ところで、先ほど「伝道の真の担い手は教会だ」と言いましたが、その担い手である教会さえも聖霊なる神が働いてくださらなければ、伝道の成果をあげることは出来ません。そういう意味では、伝道の究極の担い手は神様ご自身に他なりません。そう考えるならば、伝道に関して、誰も自分を誇ってはならないし、また、自分を必要以上に卑下してもいけないのです。

 最後に3番目の誤解ですが、「どう伝道するのか」、伝道の方法についての誤解です。これは使徒言行録を読めば明らかなとおり、色々な伝道方法が取られて来ました。つまり、伝道には決まった方法や手段などほとんどないということです。それぞれがチャンスを生かし、工夫を凝らして伝道してきたのです。決まりきった方法で伝道していることだけが伝道している証なのではありません。人と同じように伝道していないから伝道していないなどということは誰も出来ないのです。個人伝道に関して言えば、むしろ一人一人の賜物を生かして、工夫を凝らしながら自分なりの仕方で伝道をしていくこと、そのことが大切なのではないでしょうか。
 ただ、結果にこだわりすぎて、伝道の動機が見失われるようでは、本末転倒になってしまうのではないでしょか。

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