キリストへの時間 2004年10月10日放送    キリストへの時間宛のメールはこちらのフォームから送信ください

泥谷 逸郎(山田教会牧師)

泥谷逸郎(山田教会牧師)

メッセージ: 真のへりくだり

 おはようございます。山田教会の泥谷逸郎牧師です。

 ご存知のとおり、謙りは謙遜とも言います。謙りは、他を尊んで自分を低くすることです。謙りは、人と人との間というよりは、神さまと人との間のことが基本です。こういうわけで、へりくだりは、単に道徳的な徳ではなく、宗教的な事柄であり、救いと深い関係があります。神さまは、謙りの反対語である高慢と傲慢と高ぶりを嫌悪されます。ですから、傲慢は単に人に嫌われることでは終わりません。傲慢は永遠の滅びを招くことになります。傲慢は悪魔と同じ裁きを受けます(1テモテ3:6)。なぜなら、傲慢は罪であり、悪だからです。傲慢に反して、謙りは、救いと恵みを受けます。キリスト教信仰にとって、謙りは信仰の根本と言ってもよいでしょう。神さまに対する謙りがある人は、聖書を信じ、イエス・キリストを信じ、神さまを信じるからです。こういうわけで、どんなに人間関係で謙遜であっても、神さまに対しては傲慢な人がいます。このような人は、結局は救いの恵みにあずかることができません。今日、謙り、謙遜、自分を低くすることという教えほど軽視されている言葉はありません。謙遜は、死語になっていると言ってもよいでしょう。しかし、神さまが、「傲慢な者は低くされ、謙る者は高められる」(ヤコブ4:10)と言われていることは、永遠の真理です。

 昔、イスラエルにサウルという人がいました。背丈も普通の男よりも頭一つ高い、堂々たる体躯の人でした。彼は、青年時代に神さまとイスラエルの民によって初代の王として選ばれた人です。自分が王に選ばれそうになったのを知った彼は、物陰に隠れて人々の前に出てこようとしなかった、たいへん謙遜な人でした。それが、いよいよ王として立てられ、神さまのお守りと助けによって数々の勝利を収めるようになると、だんだんと勝利は自分の力によると考えるようになり鼻が高くなってきました。ある時、神さまは預言者サムエルを通して、サウル王にアマレク人を大人も子供も、老人も女も、家畜もすべて滅ぼし尽くせ、とお命じになりました。アマレク人は、かつてモーセの時代にイスラエル人が出エジプトをして、神さまの約束の地カナンに帰る途中、妨害しました。神さまはこれを怒られ、アマレク人に最後の審判を施されたのです。勝利を収めたサウル王でしたが、アマレクの王アガグと肥えた家畜は生かしておきました。預言者サムエルがやってきました。王は、神さまがお命じになった通り、アマレク人と家畜とは皆滅ぼしたと報告しました。すると、預言者サムエルは、それではあの聞こえて来る家畜の鳴き声はどうしたのか、と詰問しました。すると、サウル王は、「兵士がアマレク人のもとから引いて来たのです。彼らはあなたの神、主への供え物にしようと、羊と牛の最上のものを取って置いたのです。ほかのものは滅ぼし尽くしました」と答えました(1サムエル15:15)。これに対して、神さまは、「私が喜ぶのは、焼き尽くす献げ物やいけにえではなく、私の声に聞き従うことである。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり、耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。...高慢は偶像崇拝に等しい」(1サム15:22、23)と言われて、サウルを王位から退けられました。神さまの前に驕る人は、サウルと同じようになります。これは、今を去る3000年昔のサウル王に起ったことですが、21世紀に日本にいる私たちにも起こることです。高慢は滅びに至るということは永遠の真理です。ですから、私たちは、まず神さまの前に謙り、人々の前に謙遜でなければならないのです。

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