聖書を開こう 2004年12月23日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: すべてを吟味(1テサロニケ5:19-22)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいたいと思います。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 「よげん」という言葉を漢字で書くと「予め言う」と書いて「予言」と読ませる単語と、「預かった言葉」、「預金」の「預」に「言う」と書いて「預言」と読ませる単語があります。聖書の中で「よげん」と言う言葉が出てくるときには、「神から預かった言葉」と言う意味で、「預金」の「預」に「言う」と書く「預言」という言葉を使います。もちろんそれは、時には未来のことを神様から授かる場合もありますから、「予め言う」方の「予言」と同じ意味の時もあります。しかし、聖書がいう「預言」は必ずしも未来にかかわる事柄とは限りませんから、「予め言う」予言とは異なります。

 さて、きょう取り上げる個所はこの「預言」にかかわる勧めの言葉です。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書テサロニケの信徒への手紙一 5章19節から22節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 ”霊“の火を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません。すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。あらゆる悪いものから遠ざかりなさい。


 今お読みしたのは4つの節にまたがる教えです。今まで数回に分けて、テサロニケの信徒への手紙一の5章に記された勧めの言葉を学んで来ました。それらの勧めの言葉は一見、パウロが思いつくがままに書き記した勧めの言葉のようにも見えます。相互にこれと言った関連性もなく、バラバラの勧めのような印象を受けるかもしれません。しかし、今までの学びでも明らかにして来ましたが、これらの勧めの言葉はいくつかのまとまりを持っています。そして、全体は教会の中での過ごし方にかかわる勧めの言葉です。

 特にきょう取り上げた4つの節では、預言の問題が取り上げられます。

 パウロは「”霊“の火を消してはいけません」という言葉でこの段落を始めます。ここで、「霊」と言われているものは、人間の霊魂ではなく「神の霊」を指すと理解してよいでしょう。パウロは神の霊の火を消してはならないと言います。

 「神の霊の火を消す」とは一体どういうことでしょうか。新約聖書のエフェソの信徒への手紙4章の30節には「神の聖霊を悲しませてはいけない」という勧めの言葉が出てきます。そこでは、「神の聖霊を悲しませる」とは、明らかに、神のみ心にそぐわない生き方によって、保証として一人一人に与えられた聖霊を悲しませることを指しています。同じように、ここでも、神の御心にそぐわない生き方によって、神の聖霊の火をかき消してしまうことを言っているのでしょうか。

 ここでの勧めの言葉は、むしろ次の節とあわせて読んだ方が理解しやすいでしょう。パウロは次の節で「預言を軽んじてはいけません」と勧めています。聖書の中に出てくる「預言」とは、神から言葉を預かることです。それは神の霊によって特別な働きに召された人に与えられた霊的な賜物なのです。その霊的な賜物によって、神の言葉を預かって語る人が、預言者なのです。その働きを軽んじる時に、神の霊の火がかき消されてしまうのです。

 はたして、テサロニケの教会では、具体的に預言を軽んじるような、何か特別な事情でもあったのでしょうか。それとも、一般論として、預言を軽んじないようにと勧めているのでしょうか、その辺りは定かではありません。ひょっとしたら、この手紙の中で問題になっていた終末の出来事をめぐって、いろいろな人が自分は預言者だと言って、さまざまなことを言っていたのかもしれません。それが原因で、預言や預言者に対する食傷気味な傾向がテサロニケの教会にはあったのかもしれません。

 いずれにしても、預言が神の言葉を預かることであるとすれば、それを軽んじることは、神ご自身を退けることでもあります。

 しかし、そのすぐ後でパウロは「すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい」と続けています。預言を重んじることは言うまでもないことです。しかし、本当にそれが預言であるのか、無批判に鵜呑みにしてしまうことはとても危険なことです。新約聖書が生み出されつつあるその時代に、既に教会では偽預言者の活動に悩まされていました。すべてを鵜呑みにすることで、教会の中に間違った教えが入り込み、共同体が分裂の危機にさらされます。

 同じパウロはコリントの教会に宛てた手紙の中で、こう書いています。

 「預言する者の場合は、二人か三人が語り、他の者たちはそれを検討しなさい」(1コリント14:29)。

 同じようにヨハネもその第一の手紙の中でこう語っています。

 「愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。」(1ヨハネ4:1)

 その当時、具体的にどのようにして検討し、吟味し、見分けていったのかは記されていません。ただ、聖書が完結した現代では、それが神の言葉をあずかって語られたものであるかどうかを判断するのは、聖書自身ということになるのでしょう。まだ新約聖書が完結していなかった当時のべレアの人たちはパウロの語ったことが果たして本当かどうか、毎日、聖書を調べていたとあります(使徒17:11)。これと同じ姿勢は、牧師の説教を聴く現代の信徒にも大切なことだと思います。

 ただ、パウロがこのことを勧めたのは、預言者個人を批判するためではありません。そうではなく、すべてを吟味して、良いものを大事にするためです。無批判の鵜呑みでもなければ、批判するための批判でもなく、そこには教会を建てあげていく建徳的な意図がありました。吟味し、検討するのは、良いものをしっかりと掴むためです。それはまた、あらゆる悪から遠ざかることとも一致しています。このようにして、パウロが願うことは、神の共同体である教会が、神の言葉に養われ、良いものをしっかりと捉えて、成長していくことなのです。

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