BOX190 2005年2月23日放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 「人生って何なのでしょうか?」  兵庫県 K・Yさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は兵庫県にお住まいのK・Yさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

 「山下先生、こんにちわ。突然のメールで失礼します。わたしは人生について深い洞察を持っているわけではありませんが、この人の人生は一体何なのだろうと思う人が世の中にいることに、人生の不思議さを思い、自分の人生はこのままでほんとうに終わるのだろうかと畏れの念さえを感じてしまいます。

 わたしは自分で言うのも変ですが、ごくごく普通の人生を歩み、今までこれといった事件にも遭遇することなく、これといってお金に困ったこともなく、すごく恵まれているわけではありませんが、しかし、不幸だと思ったこともありません。誰かに対して何か酷いことをしたこともしたこともなければ、誰かからひどい仕打ちに遭ったこともありません。世の中の大半の人はわたしと同じように人生を送っているのかもしれません。そして、これが幸せな人生なのかもしれません。確かに自分でもそう思います。

 けれども、世の中を見渡してみると、少ない人数かもしれませんが、突然の病や事故に襲われたり、生まれてくる場所がそもそも貧困の中であったり、誰からも愛される経験がなかったり、不幸としか思えない中に生きている人もいます。そういう人たちと自分を比べるのは良くないのだと思いますが、しかし、自分は幸せだと思い、その人たちは可哀想だと思います。そしてまた、いつかは自分にも突然の不幸が襲ってくるのではないかという思いも漠然としてきます。

 また、世の中にはあくどい生き方をしていながら、しかし、何も良心に痛みも感じないで生きている人もいます。そういう人に限って、病気にもならなければ、突然の不幸も経験することがないように思います。富に満ち溢れ、何だか不公平な気もします。

 そんな世の中を見ていると、人生って一体何なのだろうかとわからなくなってきます。キリスト教ではこういった不条理とも思える人生の謎について、どう教えているのでしょうか。」

 K・Yさん、お便りありがとうございました。K・Yさんはこの世の中に生きている人たちを観察しながら、ほんとうにいろいろと人生について考えていらっしゃるのですね。そうやって自分の回りに生きる人たちのことに関心を抱き、人生についていろいろと考えを巡らせることは、とても大切なことだとわたしは思います。もし、この世の中に生きている人たちが、K・Yさんのように真剣に物事を見つめて、人生についての思いを巡らせるならば。それだけで、世界が変わるような気がします。

 もっとも、不条理と思える人生に翻弄されて、生きる意味を見失ってしまっては、もとも子もありません。やはり、この謎とも思える人生の不思議さに何かの答えがなければ、安心して生きていくことはできないでしょう。もちろん、そこには答えなどないという人生哲学もあるかもしれません。幸福な人生にも不幸な人生にも意味があるわけでなく、ただ、与えられた人生を運命と思って受け入れることだけが人間に求められているのだと、そう考える人もいることでしょう。

 ところで、この世に生きる人々の人生をどう見るのかというのはとても難しい問題があります。この世に起こっている現実を捉えるということだけでも、実はそう簡単ではありません。貧困の中に生まれる人、裕福な暮らしを生まれながらに楽しむ人…これは客観的に区別できるかもしれません。しかし、どちらが幸せでどちらが不幸かと言う問題はまた別の問題です。また、人生を楽しめる人と楽しめない人、これは本人の主観的な問題かもしれませんが、しかし、統計を取ればどちらかに色分けできるでしょう。けれども、人生を楽しめる人が肉体的な意味で健康が備えられていて、人生を楽しめない人が肉体的に病を得ているかというとそうでもありません。このような観察を続ければ続けるほど、人生の意味がますますわからなくなってしまいます。しかし、現実を全く見ないのであれば、さらに、人生についての洞察など生まれてくるはずもありません。

 実は聖書の中にもK・Yさんが抱いたのと同じような疑問の声がたくさん出てきます。たとえば、詩編の73編にはこう書かれています。

 「神に逆らう者の安泰を見て わたしは驕る者をうらやんだ。死ぬまで彼らは苦しみを知らず からだも肥えている。だれにもある労苦すら彼らにはない。 だれもがかかる病も彼らには触れない。」

 こんな現実を見たら、人生の意味も、さらには神を信じることの意味さえわからなくなってしまいそうです。

 では、キリスト教ではこのような不条理とも思える人生の不思議をどう捉え、どのように意味付けをしているのでしょうか。

 まず、この人生というものに向き合うには、大きな事柄が前提になっています。誰もがその前提を抜きに人生というものを見ることは出来ません。その大きな前提と言うのは、神の存在を前提とするかしないかと言うことです。どういうものを神と呼ぶのか、それもその人その人によって答えが違うかもしれません。ただ、神の存在を前提とするのかしないのかで、人生の捉え方がまるで違ってきてしまいます。キリスト教は言うまでもなく、天と地とその中のすべてのものを造られた創造者である神の存在を前提としています。このことを前提とするキリスト教では、人生というものはそもそも造り主である神によって意味が与えられたものであるという物の見方が必然的に導き出されます。もちろん、「神は意味もなく世界を造られた」と考える人もいるかもしれません。しかし、そのように世界を造られたのだとしたら、それはそもそも「創造」という名に値しないでしょう。少なくとも、聖書は神を創造主として描き、その結果として、世界にも人生にも意味があると教えています。

 しかし、神がいると考えるならば、なおのこと、現実の世界に広がる人生の不条理な格差は不可解なものに思えてくるかもしれません。それこそ、このような現実を見るときに、そのような世界を造った神はとても気まぐれで、さじ加減一つで人の人生を翻弄して楽しむお方のように見えてしまうでしょう。

 けれどでも、聖書は世界や人間の人生を見るときに、もう一つの大きな事柄を前提として掲げています。それは、人間の罪の問題です。キリスト教の神は不条理な世界を造った不条理な神なのではなく、人間の罪こそが、世界を不条理なものにし、人生の意味を見失わせてしまう根本の原因だと聖書は教えているのです。

 今のわたしたちが現実に見ているものは、罪のためにぼろぼろにされた世界と罪のために意味を失いかけている人生なのです。ですから、その現実の世界を見たとしても、それだけで、人生の意味が分かるという事は決してありません。むしろ、そのような意味を失いかけた人間に生きる意味を回復することがこそがキリスト教の救いなのです。そのことを教える聖書を通して世界や人生を見るときに、失望でも我慢でも諦めでもない生き方が生まれるのではないでしょうか。

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