キリストへの時間 2005年12月11日放送    キリストへの時間宛のメールはこちらのフォームから送信ください

中山仰(清和学園宗教主任)

中山仰(清和学園宗教主任)

メッセージ: 「賢者の贈り物」

 クリスマスの劇の中に「東方の3人の博士」とか「東方の3人の王様」といわれる賢い占星術の学者がはるばる旅をして、「黄金、乳香、没薬」の3つの贈り物を幼子のイエスさまにおささげした記事が聖書のクリスマス・メッセージにしたためられています。

 さてこの3人は本当に賢い人であったのでしょうか。汚い動物の小屋の餌の飼い葉桶の中に寝かされたまだどのように育つか分からない赤ちゃんのイエスさまに、高価な贈りものをしたのですから、無駄ではないのでしょうか。愚かしいことではないでしょうか。なのに彼らは賢い人たちと言われたのです。

 ところでオー・ヘンリーというペンネームで知られるW・S・ポーターの短編で「賢者の贈りもの」という作品があるのをご存知でしょうか。

 お話は、クリスマス・イブのことです。ジムとデラという若い貧しい夫婦の間に起こった出来事です。二人は、貧乏でお金がありませんからクリスマスプレゼントを買う余裕がありませんでした。そこでお互いに自分のもっとも大事なものを手放して相手のために贈りものを用意します。妻のデラは唯一の財産である夫ジムのために、ジムは金時計をもっていたのですが、その時計の鎖がないのを知っていましたので、美しい髪をばっさりと切ってそれを売ってジムのために鎖を買いました。夫のジムは、妻デラのために自分の持っている唯一の金目の金時計を売って妻の美しい髪に合う髪飾りを求めます。それらをそれぞれクリスマスプレゼントとして相手に贈ったのでした。

 もうお分かりですね。相手のために心を込めて、苦心してお金に替えて贈りものを用意したのに、どちらも使い物にならなかった訳です。金時計の鎖をプレゼントされたジムは妻への髪飾りを買うために金時計を売ってしまいましたし、妻デラは金時計を買うためにばっさりと切ってしまったからです。結婚式の時このようにお互いを愛し合う夫婦になってください、とスピーチで使われる場合がありますが、考えようによると、世にも哀れな賢くないような話です。

 作者のオー・ヘンリーは次のようにしめくくっています。

 「東方の賢者たちは、ご存知のように賢い人たちでした。飼い葉桶の赤ちゃんに贈りものをした素晴らしく賢い人たちでした。」「いま、私はここにアパート住まいの二人の愚かな若者が、家の宝をお互いのために、まったくばかげた方法で犠牲にしてしまうという、別に代わり映えのしないお話を、つたないがらもいたしました。今日の賢い方々に最後に一言申し上げたいのは、贈りものをする人たちの中で、このふたりほど賢い人はいないということです。・・・・・彼らこそ賢者なのです。」

 ユダヤ地方の片隅のベツレヘムに生まれた名もない一人の赤ちゃんが、世界の救い主であるということを信じることは愚かなことでしょうか。賢いことでしょうか。

 その前に、神の子が貧しく低く人間として生まれ、しかも家畜小屋の飼い葉桶の中に寝かされているということ自体が愚かしいことではないでしょうか。そして、幼子イエスは成長してから、無罪であるのに処刑されたのです。しかも世界で一番重い最悪の処刑方法である十字架に付けられて殺されたのでした。父なる神は、独り子イエスを救い主と信じるか信じないかまだ分からない罪深い人間のために、お遣わしくださったのでした。

 またそんなイエス様を信じた人たちは、愚かなのでしょうか。そんな低く、醜い有様で処刑までされた人が、信仰者の王、主なのですから。

 神の愚かさは人間の最高の知恵よりも尊く賢いのです。神の賢い知恵により、愚かしい方法をとられてまでも実現したかったのは、神の深い憐れみによる救いです。その神の愛が、見える形で実現したのがクリスマスです。謙遜に神の愛の業を受け入れるものに、クリスマスつまりイエス・キリストの誕生は最高の贈りものなのです。実際主イエスは、愚かな罪深い私たちの救い主だからです。

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