聖書を開こう 2005年5月19日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: イエスの受洗(マタイ3:13-17)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 中世の神学者でありカンタベリーの大司教であったアンセルムスの著作に「Cur Deus Homo?」(神は何故人となりたもうたか)という本があります。神は何故人とならなければならなかったのか、キリスト教の救いの中心となる教えです。

 きょうこれから取り上げようとしている個所には、似たような疑問が記されます。そこにはイエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受ける話が出てきます。何故イエスは洗礼を受けなければならないのか…洗礼者ヨハネは問い掛けます。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 3章13節から17節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。

 イエス・キリストの生涯は、洗礼者ヨハネから洗礼を受けることによって公に始まります。それで、洗礼を受けてから十字架にお掛りになって葬られるまでの数年間を一般に「公生涯」と呼んでいます。ルカによる福音書によれば、イエスが洗礼を受けられたのはおよそ30歳のときでした(ルカ3:23)。当時のライフサイクルを考えると、随分遅めのデビューのような気もします。いえ、それまでの30年間、まさに普通の人として職につき、長男として家族を支え、誰もが味わう辛苦を味わい、正に時が満ちてこの時を迎えたのでしょう。

 ほかの多くの人たちと同じように、ヨルダン川で悔い改めの洗礼を授けていた洗礼者ヨハネのもとにやってきたのでした。

 洗礼者ヨハネが述べ伝えていたのは悔い改めの洗礼でした。人々は自分の罪を告白し、洗礼を受けていたのです。しかし、罪のないイエスが洗礼者ヨハネから洗礼をうける必要がいったいどこにあったのか、誰もが疑問に思うかもしれません。

 当の洗礼者ヨハネ自身もやってきたイエスを思いとどまらせようと押し問答をします。けれども、ヨハネがイエスを思いとどまらせようとしたのは、イエスが「罪なきお方であったから」という理由ではありませんでした。ヨハネはやってきたイエスにこう言います。

 「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」

 実は洗礼者ヨハネはかねてから民衆たちにこう言っていました。

 「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」

 ヨハネにとってはイエスこそ後からやって来るお方、聖霊と火で洗礼を授けるお方であると言うことなのです。その自分よりも優れたお方が、この自分から洗礼を受けるとは、断じてあってはならないことだと思ったのでした。

 しかし、それにもかかわらずイエスはヨハネの願いを退けてこう言います。

 「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」

 イエスはそれが神の御心に適った「正しいこと」とだけおっしゃいました。それがどう正しいのか、具体的なことはおっしゃっていません。

 そもそも、イエス誕生にまつわる話の中で、天の使いはやがて生まれてくる救い主メシアについて、こう告げました。

 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」

 インマヌエルとは「神は我々と共におられる」という意味です。つまり、このイエスこそ、我々と共にいてくださるお方なのです。それは清らかな遠くの天国から、罪深い地上を眺めるだけのお方ではないということです。この罪ある世界に降り立って、罪ある人間と共に歩まれるということなのです。決して、ご自分だけは一線を画したところにおいでになるお方ではないということです。

 ですから、悔い改めを必要とする人間と同じように、ヨルダン川に来て洗礼者ヨハネの手から洗礼を受けることをよしとされたのでしょう。

 イエスが洗礼を受けられたということの中に、まさに「我々と共にいてくださる」救い主の姿を見出そうではありませんか。

 そうなのです。神はイエス・キリストを通して、罪人と共に歩み、罪人の救いを成し遂げられることを望み、決意しておられるのです。

 さて、洗礼を受けられたイエスの上には神の霊が鳩のように降ったとマタイ福音書は記しています。神の霊が鳥のように羽ばたくと言う表現は、旧約聖書創世記の1章2節に出てくる表現です。天地万物をお造りになるに当たって、神の霊が混沌とした水の面を羽ばたく鳥のように動いていたのです。それと同じように、このイエスの洗礼の記事では、あたかもイエスと共に神の新しい創造の御業が開始されたことを物語るかのように、イエスの洗礼の出来事が語られているのです。

 そして、そのようにして神の霊を受けたイエスを紹介して、天からの声がひびきます。

 「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」

 このイエスこそ神が選ばれた僕、救いを成し遂げるために選ばれた救い主なのです。

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