聖書を開こう 2005年5月26日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 誘惑に打ち勝つイエス(マタイ4:1-11)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 「誘惑」という言葉と「試練」という言葉は、持っているニュアンスが全然違います。ところが、新約聖書が書かれたギリシャ語では、この二つの事柄は同じ単語で表されます。丁度、きょう取り上げようとしている個所には「誘惑」という言葉が出てきます。それと全く同じ単語が、ヘブライ人への手紙4章15節では「試練」と訳されています。

 考えても見れば、同じ事柄でも「試練」と「誘惑」の両面があるような気がします。罪にいざなう者の観点から見れば、それは正に誘惑です。しかし、その誘惑に打ち勝ち、成長していく者にとっては、それはただの誘惑ではなく品性を練り上げるための試練なのです。

 きょうこれから取り上げる個所に出てくるお話は、「荒野での誘惑」というタイトルで知られている個所ですが、それは人の子イエスにとって「試練」でもあったのです。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 4章1節から11節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、”霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」

 次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。

 更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。

 イエスが受けた誘惑について学ぶ時に、二つのことに特別な注意を払う必要があります。

 その一つは、この荒野での誘惑が、ただイエス・キリストが受けた個人的な試練として片付けてしまってはいけないということです。この荒野での誘惑は、人類全体とのかかわりの中で理解されなければなりません。人類の始祖、アダムとエバがエデンの園で誘惑を受けたように、イエスもまたサタンからの誘惑を受けられるのです。

 新約聖書ではイエス・キリストをアダムと対比させて、最後のアダムと呼んでいます(1コリント15:45)。それは「アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになる」(1コリント15:22)からです。

 もう一つ特別に注意を払わなければならないことは、このイエスが受けられた誘惑は、人類とのかかわりの中で受けられた誘惑であると同時に、正に人類の救い主、メシアとしての資質が問われている誘惑でもあったのです。あとで詳しく見ますが、もし、サタンの言葉どおりにイエスが行動をとっていれば、一躍この世の注目を集めるメシアが誕生したかもしれません。しかし、神がお遣わしになった救い主は、そのような方法で人目を引き、人に安易な救いを与えるお方ではないのです。

 それでは、一つ一つの誘惑について見ていきたいと思います。

 最初の誘惑は、空腹を覚えられたイエスに対して、石をパンに変えてみよ、というものでした。

 一般に食料は命に結びつくものと考えられています。メシアがまことの王としての権限を発揮できるとすれば、その王国の民に食べ物を与えることです。その国民を飢え死にさせるような国王は王としての資格がないものです。もし、誰もがあっというような方法で食べ物を無尽蔵に与えることができたとしたら、それこそ救い主として一目置かれること間違い無しです。それがサタンの論理です。

 しかし、そのサタンの論理に対して、イエス・キリストは旧約聖書申命記8章3節の言葉を引用して答えられました。

 「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」

 かつて40年間荒野を旅したイスラエルの民が学んだことは、神の言葉、神の約束の言葉こそが自分たちを生かす力があるということでした。確かに生きるためにパンは必要でしょう。しかし、神の約束の言葉に信頼することを学ばせないで、ただパンだけを与えるとすれば、それは人に本当の命を与えることにはならないのです。

 第二の誘惑は神殿の屋根から飛び降りてみよ、というものでした。

 この世の人が救いを求め、自己鍛錬に励むのは、それによって自分の能力以上のものを引き出すためです。人々はそういうものに救いを感じ、そういう魅力的な宗教に惹かれやすいものです。もし、イエスが救い主であるなら、是非ともそのような力を発揮するべきだ、とサタンはそそのかします。しかも、サタンも負けてはいません。しっかり、聖書の言葉を引用して、それは無謀なことではなく、かえって神への信頼を表すものだと主張します。もちろん、サタンの聖書の引用は文脈を無視したものでした。

 そのようなサタンの誘惑に対し、イエスは再び聖書を引用して答えます。申命記6章16節です。

 「あなたの神である主を試してはならない」

 この旧約聖書の言葉には続きがあります。

 「あなたたちの神、主が命じられた戒めと定めと掟をよく守り、主の目にかなう正しいことを行いなさい。」

 神を試さない生き方とは、神の教えに従って地道に生き、神の目に適うことを選び取ることです。

 神殿の屋根の受けから飛び降りることは、神の教えに本当に信頼して生きることでもなければ、神の教えに従って地道に生きることでもないのです。

 さて、最後の誘惑は、サタンの前に跪くことと引き換えに、この世の繁栄を手に入れることです。サタンが示す救いの論理は、人間が求めるものを満足行くまで人間に与えることです。人間は富と繁栄を求めます。人間の救い主でありたいならば、人間の求める富と繁栄を手に入れることです。それには手段を選ぶ必要はないのです。サタンに跪いても、人間の求めに応じることができれば、それで十分なのです。それがサタンの救いの論理なのです。

 しかし、イエス・キリストは最後の誘惑も、神の言葉によって退けました。

 「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」

 申命記6章13節をはじめとして、申命記に繰り返される言葉です。

 神を畏れ、神を礼拝し、主である神にのみ仕える生き方こそ、人間の幸せであり、本当の救いなのです。人はたとえ全世界を得たとしても、神を見失ったのでは、自分自身をも失ってしまうのです。

Copyright (C) 2005 RCJ Media Ministry All Rights Reserved.