聖書を開こう 2005年8月18日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 敵を愛せ(マタイ5:43-48)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 きょうこれから取り上げようとしている聖書の個所に「敵」と言う言葉が出てきます。もちろん、わたしは「敵」という言葉を知らないわけではありません。しかし、「では誰がわたしの敵なのですか?」と具体的に考え始めると、中々具体的なイメージが出てきません。それは、わたしが心の広いクリスチャンだからと言うのではないでしょう。おそらくわたしが戦後生まれで、平和な日本で長く暮らしてきたからだと思います。わたしの両親の世代の人たちが英語を「敵製語」としてことごとく使わなかった時代のことを想像することすら難しいと感じます。わたしにとってアメリカやイギリスは敵であったためしがないからです。

 そういうわたしと比べれば、イエス時代に生きていたユダヤ人にとって「敵」という言葉は、はるかに具体的なイメージで思い浮かべることのできる言葉だっただろうと思います。何度も外敵に国を攻め取られ、イエスの生きていた時代ですら、独立国家としての自由が与えられていなかったからです。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 5章43節から48節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」

 今回取り上げるイエス・キリストの言葉も、「あなたがたも聞いているとおり」という言葉で始まります。それは大抵の場合、旧約聖書の教えであったり、また、先祖代々言い伝えられてきた言葉でした。確かに『隣人を愛せよ』という教えは、レビ記19章18節に見られる教えです。ところが、『敵を憎め』という直接の教えは聖書には出てきません。出てはきませんが、敵に対する憎しみは随所に語られています。特に「異邦人」と「敵」という言葉はほとんど同じ意味の言葉とさえなっている例も見かけます(ネヘミヤ5:9、イザヤ62:8)。

 そもそも、隣人を愛することを教えているレビ記19章18節は、兄弟や同胞という限られた共同体での隣人愛を教えている個所ですから、その裏返しとして、ユダヤ人ではない異邦人は隣人愛の対象から漏れてもよいという考えがどこからともなく生まれてきたとしても不思議ではありません。彼らにとって敵というのは真の神を信じないすべての外国の人々といっても良いかもしれません。

 そのような考えを当然として育ってきた弟子たちに対して、イエスは「敵を愛せよ」と命じます。もっとも、このイエスの教えはただ単に異邦人を敵とし、憎んできたユダヤ人に対してだけ意味を持つ教えではありません。選民意識はどの国、どの集団でも起こりうるからです。

 ところで、「敵を愛する」ということを考えるには、「敵」とは誰なのかと言うことを深く考えてみる必要があるように思います。

 敵対心を抱くと言うのは、お互いに抱くこともありますが、こちらが相手に対して一方的に抱く場合もあります。そういう場合は、ひとえにこちらの問題ですから、敵を愛することはこちらの敵対心を捨てることだけで実現できることです。自分が作った敵なのですから、自分が敵対心を捨てることさえできれば問題は解決してしまうのです。選民意識から生まれる敵対心は、正に敵対心の対象である人々を愛することによって簡単に克服できるのです。もっと正確にいえば、敵対心を抱く対象の人々に注がれている神の愛に気がつくことによって克服されるのです。その人が神の愛と恵みを受けていることを知れば、誰が神にさからってその人を憎むことができるでしょうか。

 しかし、イエス・キリストがここで取り上げている「敵」とは、こちらの敵対心が問題で敵となっている人々ばかりではありません。明らかに相手がこちらに対して一方的に敵対心を剥き出しにしている場合も含まれています。「迫害する者のために祈れ」と言われているように、相手はこちらの気持ちに関わりなく、敵対している者たちなのです。こちらが相手に敵対心を抱いていなくても迫害する者たちです。その彼らを愛し、彼らのために祈ることをイエス・キリストは勧めているのです。このような敵を愛することは決して容易なことではありません。

 イエス・キリストは「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」とおっしゃっています。正に神のようであれとおっしゃっているのも同然です。けれでもそれは人間にとって不可能なことであるといっても良いかもしれません。なぜなら、人間は神ではないからです。ただ一人、そのことを実現なさったお方はイエス・キリストだけです。イエス・キリストは十字架の上で、ご自分を十字架につけた者たちのために祈り、彼らが赦されることを願ったからです。

 しかし、それでもイエス・キリストは弟子たちに「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」とおっしゃいます。

 わたしたちは隣人愛についてのこの教え、敵をも隣人として愛するこの徹底した隣人愛の教えを、自分の力で実現できるものと思ってはならないのです。クリスチャンは完全な者なのではなく、完全に向かう途上にある者なのです。この完全に向かう途上にあるクリスチャンを神は支え、導いてくださるのです。その神の恵みを信じ、より頼み、神に従う者だけが、完成されたクリスチャンへと成長させていただけるのです。

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