聖書を開こう 2005年10月6日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 神を見つめる生き方(マタイ6:22-24)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 「見る」と言う言葉には二通りの意味があります。一つはただ漠然と光を感じて、ものを見ている状態です。もう一つは、意識して対象に目を注ぐ状態です。わたしたちの日常生活の中では、色々なものが目の前を通りすぎていきます。目を凝らしてそのすべてを見ていたのでは神経が疲れてしまいます。人は注目すべきものとやり過ごすべきものとを瞬時に判断してしまいます。こうして同じ視力の目で見ていても、見えるものと見えないものとが生じるのです。

 さて、それと同じように人が心で見ることも、その人の意識のありがたで違ってきます。何を心に感じ、何を心の目で見るのかは人が生きていく上でとても大切なことです。今日取り上げる個所には、この目に関するキリストの言葉が記されています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 6章22節から24節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」

 「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」

 今日取り上げる個所には、一見バラバラの二つの教えが記されているように見えます。しかし、先週取り上げた言葉も含めて、いずれも6章の前半に記された三つの教えと関係があります。6章の前半には「施し」について、「祈り」について、それから「断食」についての教えがそれぞれ記されていました。そのとき、イエス・キリストは「偽善者のようであってはならない」とおっしゃいました。それは人に見られようとする生き方に対して、隠れたところにおいでになる天の父なる神の前で生きる生き方でした。言い換えれば、それは天に心をあらしめる生き方、天に宝を積む生き方に繋がってくるのです。

 今日最初に取り上げる「体のともし火である目」というのは、必ずしも肉体の目という意味ではありません。聖書が語る「体」という言葉は、文字通りの肉体というよりはもう少し人間の存在全体を言い表した言葉です。目というのはもちろん肉体的な意味では物を見る器官です。目が見えなければ、暗闇状態です。目が見えなければ、ともし火を失った時のように、手探り状態になってしまいます。そういう意味で正に目は体のともし火です。しかし、ここでは人間の存在にとってともし火となるような、そういう器官を念頭に置いているのですから、文字通りの目のことを言っているわけではありません。第一、そうであるとすれば、目の不自由な人や視力の衰えた人は、全身が暗い人になってしまうわけです。そうではなく、ここでは心の目のことが問題になっているのです。どんな心の目から何がその人の内側に入ってくるのかが重要なのです。

 後にパウロはエフェソの信徒への手紙の中で、まことの神を知らない人々の生活を描いてこう言いました。

 「彼らは愚かな考えに従って歩み、知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています」(4:17-18)

 暗くなった知性、暗くなった心の目では正しく神を見ることができません。ですから彼らは「無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを知りません」と言われるのです。

 それに対して、イエス・キリストは「心の清い人たちは幸いである。その人たちは神を見る」とおっしゃいました(マタイ5:8)。神は澄んだ心の目で見るものです。頑なに心を閉ざす濁った心の目では神を見ることも知ることもできません。神を見ることも知ることもできないので、心を天にあらしめる生き方をすることもできないのです。神を感じることができないので、人に見られようとして偽善的な行いに走るのです。そして神を見ることができない心の目は、隣人をも見ることができない目なのです。

 次にキリストは「だれも、二人の主人に仕えることはできない」とおっしゃいました。この言葉も、一見何の脈略もない独立した教えのように見えますが、しかし、今まで述べてきたことと深く関わっています。

 ここでキリストが述べている二人の主人とは神と富のことです。富そのものは善でも悪でもありません。しかし、わたしたちが富を管理し、支配するのではなく、わたしたちが富に支配され、富に仕える奴隷となるときに、たちどころに富は化物のような主人になってしまうのです。人間は富の奴隷であるべきではないのです。

 富を主人とするのは人間です。富は自分で人間の主人になるわけではありません。天地の造られる前から主であるお方はただひとり、聖書の神だけです。人間はこのお方にこそ仕えなければなりません。しかし、本来、主人ではない富を主人に祭り上げ、これに仕えているのは人間なのです。これは本末転倒した生き方です。まさに、主人と主人でない者とを識別できないほどに、心の目がすっかり濁ってしまった生き方なのです。

 天に宝を積まない生き方とは、実は地上にも宝を積んではいないのです。宝を積んでいるのではなく、天でも地上でも財産に心を支配され、神に仕える心を失っているのです。

 間違ってはいけないのですが、キリストは「神と富とに上手に仕えなさい」とはおっしゃっていないのです。そんな器用なことはできるはずがないのです。できるはずがないというよりは、そもそも富は主人ではないのですから、富に仕えてはいけないのです。もし、神と富とに上手に仕えることができるという人がいるとすれば、それは大きな思い違いなのです。

 キリストはおっしゃいました。「一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらか」なのです。

 まことの神に何かを並べて同等に仕えることはできないことなのです。

 天に宝を積む生き方は、澄んだ心の目で真っ直ぐ神を仰ぐ生き方です。澄んだ目で真っ直ぐ神を仰ぐ生き方とは、神にのみ仕え、他の何ものに対しても奴隷とならない生き方なのです。

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