BOX190 2006年1月18日放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 「見失った自分捜し」 千葉県 S・Iさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は千葉県にお住まいのS・Iさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

 「山下先生こんにちは。いつも楽しく番組を聴かせていただいています。

 きょうは今見失っている自分について、お尋ねしようと思い、筆をとりました。というのは、ヒレルというユダヤのラビが作ったアラム語の詩を読んで、考えさせられたからです。

 『もし、わたしが「自分」のために存在しないのなら、いったい「誰が」自分のために存在するのだろう? もし、わたしが「自分」だけのために存在するのなら、 そのわたしとは何者なのだろう? そして、もし、今、「自分」のために存在しないのなら、 いつ、存在するのだろう? 』という具合です。

 この問いかけに対して、『神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶ』…と信仰告白にありますが、今の自分は、と顧みたとき『まぁ、いいんじゃないの』と妥協してしまっていて、神のためにも、自分のためにも存在していない『自分自身』がいます。日々の決断の中に自分の存在感を見失っている感じがします。同じ決断でも、自分の意思の入っているものをしたいものだと思っていますが、今見失っている自分捜しにアドバイスがいただけたら幸いです。どうぞよろしくおねがいします。」

 S・Iさん、番組をいつも聴いていて下さってありがとうございます。いただいたお便りを読んでいて、S・Iさんの真摯に生きる姿勢を垣間見させていただいたような気持ちがします。様々な疑問にぶつかり、悩み、答えを見出そうとする姿勢、それが生きていく上で大切なことではないかと思いました。

 さて、ご質問にお答えする前に、ヒレルの詩に関連して少し考えてみたいと思います。

 人生について人は様々な問いを発しています。もちろん、深く悩んだからといって現状が変わるわけはないと、何も考えずに、日々を過ごしている人もいるでしょう。しかし、そういう人であっても、そういった結論に至るまでの間に、やはり自分の人生についての素朴な疑問を抱いたはずです。そして、誰もが一度は口に上げるのは、「人は何のために生きるのだろう」という素朴な疑問です。それは言うまでもなく人生の目的に関する疑問です。そして、それは同時に自分の人生に意味を見出したいという願いでもあります。人生に何の目的もなく意味もないというのであれば、生きていることはとてもつらいことです。

 さて、ヒレルの詩を読んでいて感じたことは、人生について、問いの立て方が似ているようで違っているということです。この人生がいったい誰のものであるのか、そのことを問うているように感じました。「何のため」ではなく「誰のため」という問いの立て方がポイントだと思います。

 日本語では「人生」というときに、わざわざ「私の」という言葉をつけたりはしません。しかし、英語のように「マイ・ライフ」とわざわざ言わないにしても、「人生」について考える時には、それが「自分の」人生に関わる問題であることは暗黙の前提です。誰もが「自分の」人生の意味や目的について考えているのです。けれども、私の人生とは言っても、私の力ではどうしようもないのが人生です。だからこそ、人生の意味や目的について人間は思いをめぐらせるのだと思います。

 さて、ヒレルの詩にあるように、「もし、わたしが自分だけのために存在するのなら」…言い換えれば自己完結した存在であるのなら、ヒレルの言う通り「そのわたしとは何者なのだろう?」ということになるでしょう。完全に自己完結しているお方は神以外にいないからです。自分の人生が自分だけのためにあると考えることは、結局は自分を神としてしまう愚かな生き方に陥ってしまうのです。しかし、また自分以外の誰かのためだけにあるのだとすれば、それはもはや自分の人生ではなくなってしまいます。要するに、私という存在が持つ意味を、神と隣人との関係で正しく見出さないとすれば、人生の意味を見失ってしまうのだ。というふうに、私はこの詩を理解しました。

 さて、S・Iさんはウェストミンスター小教理問答書から引用されていますが、問1の答えは人生の目的を考える上でよく引用される個所です。

 「問:人の主な目的は何ですか。答え:人の主な目的は、神の栄光を現し、永遠に神を喜ぶことです」

 改革派教会や長老派教会の人たちにはとても馴染みのある問答です。そして、それとともに第一コリント10章31節の言葉もよく気を腐れているのではないかと思います。

 「あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」

 人生について考える時にこれ以上の答えはないとは思いますが、私はこれと並んで、イエス様が教えて下さった最も大切な戒めについていつも思いをめぐらせています。つまり、神を愛することと、人を愛すること…もし、これを離れて人生の意味や目的について考えるとしたら、それはとてもむなしいものになってしまうと思います。

 結局のところ、神を愛する時にこそ、最もよく自分を知ることができるのだと思いますし、隣人を愛する時にこそ、自分の存在の意味を見出せるのだと思います。この両方を通してこそ、コリントの信徒への手紙一で言われている「すべて神の栄光を現すためにしなさい」という言葉を実現していくのではないでしょうか。

 少し理想的なことを述べてしまいましたが、しかし、これらのポイントをいつも頭の片隅に置いておくか置かないかということは重要なことだと思います。

 S・Iさんは「今の自分は、と顧みたとき『まぁ、いいんじゃないの』と妥協してしまっていて。神のためにも、自分のためにも存在していない『自分自身』がいます」と正直に書いてくださっていますが、私はS・Iさんがご自分をそう分析している時点で、自分捜しの道を既に歩み始めているのだと思っています。人生の道のりの中で、折々に、神を思い、隣人を思い、そして自分のあり方、生き方を思うこと、それが人生にとって大切なことなのではないでしょうか。

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