BOX190 2006年3月22日(水)放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 「キリスト教って何を信じているのですか?」 ハンドルネーム・貝さん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネーム・貝からのご質問です。携帯からのメールです。お便りをご紹介します。

 「突然のメールで失礼します。キリスト教って何を信じているのですか。一言で簡単にお答えください。」

 貝さん、メールありがとうございました。貝さんは携帯でメールをやり取りする世代の方なのでしょうか。たしかに携帯のメールでは長い文章をやり取りするのは難しいですね。携帯のメールでやり取りができるくらい簡単に、キリスト教が信じていることを表現できたら、もっと携帯世代の人たちにキリスト教が伝わるかも知れません。しかし、キリスト教の正典である聖書自体がとても携帯のメールで送ることができないほど長い文章ですから、ちょっと簡単には要約できないかもしれません。

 もっとも聖書の中には、断片的かもしれませんが、非常に短い言葉でキリスト教の信仰を言い表した言葉がいくつも出てきます。

 例えば、イエス・キリストはフィリポ・カイザリア地方に行かれた時、弟子たちに「あなたがたはわたしを何者だというのか」とお尋ねになったことがあります。

 そのとき弟子のペトロはすかさず「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えました(マタイ16:16)。

 これは立派な信仰告白の言葉です。ナザレのイエスを何者であると告白するのか、それはある意味でキリスト教の根幹に関わる問題です。この質問を弟子たちにする前に、イエス・キリストはこんなこともお尋ねになりました。

 「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」

 最初にイエスが尋ねたのは、弟子たちの考えではなく、人々がどう考えているかということでした。もちろん、イエスは人の評判を気にして弟子たちに探りを入れているわけではありません。そうではなく、先ず世間の風評を聞いた後で、弟子たち自身がどう考えているのか、世間の風評ではない、弟子たちの考えをお尋ねになりたかったのです。

 「イエスこそメシアである(キリストである)」…これはキリスト教がキリスト教である所以です。ユダヤ教でもイスラム教でも唯一まことの神を信じていますが、ことイエスが誰であるのかということに関しては、キリスト教とはまったく違った考え方を持っているのです。

 また、聖書の中には「イエスは主である」という言葉も出てきます(1コリント12:3)。パウロはコリントの教会に宛てた手紙の中で「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えない」と書いています。「イエスが主である」という信仰もまた、キリスト教にとって根幹をなすような大切な信仰箇条です。

 他にも聖書自身の中に、キリスト教とは何を信じているのか断片的ですが簡潔な言葉で言い表したものがありますので、貝さんも、是非捜してみてください。

 ただし、さきほど例に挙げたような言葉はみな、ある意味で言えば、ユダヤ教を意識しての言葉であったり、ローマ社会を意識しての言葉であったりしたものです。

 そもそも、信仰を告白するというのは、その必要を感じたときに、必要に応じて、言葉となって信仰を言い表すものです。少なくとも聖書に書き表されている、今見てきたような信仰告白の言葉はそういう種類のものでした。

 それらは、どれもキリスト教の信仰にとって根本的なものではありますが、全体を網羅しているとはいえません。

 そこで、もっとも簡潔にキリスト教の信仰を言葉に言い表したものとして知られているのは、使徒信条として呼ばれる信仰の告白です。

 それは父・御子・聖霊の三位一体の神に対する信仰を意表したものです。使徒信条は基本信条とも呼ばれ、カトリック、プロテスタントを問わず共通してもっているキリスト教の信仰であるということができると思います。

 もっとも、貝さんにとっては、それでも長いと感じられるかもしれません。また、使徒信条は簡潔な言葉ではありますが、しかし、それ自体何の解説もなく理解できるほど簡単なものではありません。実際、宗教改革時代に出された「教理問答書」と呼ばれる書物は、ほとんどこの使徒信条の解説のようなものです。それに、十戒と主の祈りの解説が加えられています。最低限、この三つ…使徒信条と十戒と主の祈りを学べば、キリスト教の基本が分かるということなのでしょう。

 ところで、もうひとつ、もっと簡潔にキリスト教の信仰を言い表した言葉があります。洗礼を受ける時に求められる信仰告白です。教派によっても若干の違いがあるのかもしれませんが、少なくとも洗礼を受けようと志願する人が信じておかなければならない事柄として、まず一つには天地万物を造られた唯一まことの神がいらっしゃるということがあります。その信仰がなければ、そもそもキリスト教はその存在自体が無意味になってしまいます。

 次に、人間は堕落の結果、皆罪人であるということです。もちろん、人間が罪人であるということは、誰か自分以外の人間のことを言っているわけではありません。まさに、自分自身が、神の赦しと救いがなければ、救われることがないほどの罪人であるということです。もし、これが曖昧になってしまったならば、救い主に対する信仰も曖昧なものになってしまいます。そういう意味で人は皆神の御前に罪人であると言う信仰箇条は、キリスト教には欠かすことができません。

 そして、三番目には、救い主そのものに対する信仰です。キリスト教ではイエスこそまことの救い主キリストであると信じています。最初の二つの項目を信じ受け入れていたとしても、もし、他の救い主を期待しているのであるとすれば、それはキリスト教ではなくなってしまいます。イエスこそが救い主キリストであると信じればこそ、キリスト教なのです。

 もちろん、キリスト教信仰は決して、この三つの事ですべてを言い表してはいませんが、少なくとも、この三つのことからスタートしなければ、正しくキリスト教を理解することはできないと思います。

 貝さんが、もし知的な興味だけからではなく、ほんとうにキリスト教についてお知りになりたいとお思いでしたら、この三つのことからスタートして、一つ一つの事柄について学びを深められることをお勧めいたします。

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