BOX190 2007年6月21日(水)放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 「幸福とは何でしょうか」 神奈川県 S・Mさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は神奈川県にお住まいのS・Mさん、女性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

 「山下先生、番組をいつも聞かせていただいています。ありがとうございます。
 さて、とても素朴な疑問ですが、幸せとは一体なのだろうと考えてしまいます。毎日のように通勤電車に乗っていると、必ずといっていいほど、年に何回かは人身事故で電車が遅れてしまいます。もちろん、詳しいことは分かりませんし、わたしの勝手な想像かもしれませんが、1年間に3万人もの自殺者を出してしまうこの日本という国は幸せな国なのだろうかと考えてしまいます。
 あるいは、町や公園でホームレスの人を見かけると、この人たちはこの国に生きていて幸せなのだろうかと思ってしまいます。
 では、自分はどうなのかというと、幸せについて考え始めてしまうと、わけがわからなくなってしまいます。満足度ということが幸せであることと同じであるとすれば、わたしはいつでも、今の生活に百パーセント満足しているわけではありません。しかし、欲求不満でいつも不平ばかりかというとそういうわけでもありません。満足していないので、一所懸命に頑張っている面もありますし、逆に程ほどのところで妥協しているので、がむしゃらすぎることもありません。そう思うと、幸せとは結局機の持ちようだということになってしまうのでしょうか。
 山下先生、キリスト教では幸せについてどう考えているのでしょうか、教えてください。」

 S・Mさん、メールありがとうございました。S・Mさんがおっしゃるとおり、この世の中で起る様々な事件に目をとめていると、ほんとうにみんな幸せなのだろうかと考えてしまうことが少なくありません。もちろん、社会の暗い部分にだけ目を留めれば、世の中、不幸なことばかりのように感じられてくるというのも無理はありません。世の中には明るい面ももっとたさんあることだと思いますし、また、一人の人の人生を考える時にも、その人の人生の一断面だけを見て、幸福であるとか不幸であるとか判断するできないものだと思います。ただ、少なくとも言えることは、幸福の追求ということは誰もが願っていることだということです。その幸福には物質的な豊かさも、精神的な豊かさも両方含んでいることだと思います。
 わたしたちの国の憲法では第13条で「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」と謳われていますし、憲法25条では「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」とあります。実際がどうであるかという問題は別にしても、少なくともそのようにあることを国家の理想に掲げている国です。そして、そのような国を作り上げていくことは国民の絶え間ない努力によることですから、他人事のように上から幸せが降ってくるのを待っているだけではだめだということなのだと思います。
 そして言うまでもないことですが、クリスチャンとしてそうした国としての理想に積極的に関わっていくことはとても大切なことです。ただ、きょうはそれとは別に、聖書が説く幸福についての基本的な事柄に関してお話をしたいと思います。

 そもそも、神が天地万物をお造りになったとき、それはもっともよく造られた世界でした。そういう意味で人間はもっとも幸福な中に置かれていたということができます。しかし、そのような世界は人類の祖であるアダムとエバが罪を犯して堕落するまでのことでした。罪は人間にもそれを取り巻く世界にも影響を及ぼしたのですから、その罪のある世界で人は完全に幸福ではありえないというのが聖書の教えです。もちろん、罪ある世界が不幸のどん底に陥ってしまわないように、神はなお恵みによってこの世界を破滅から支えてくださっています。それは国家を初め、神が人間に与えた人間の様々な組織を通して保たれているということができます。この神の恵みのことを一般恩恵とか一般恩寵などとキリスト教の用語では呼んでいます。各国が定める憲法やその他の法律もクリスチャンにとっては神の一般恩恵なのですから、それを良く守り、その実現に向かって努力することが求められるのも当然ということなのです。
 しかしながら、一般恩恵はこの世界が滅びへとまっしぐらに落ちていってしまわないための、いわば防波堤のようなものですから、それ自体は神が天地を造られたときの幸福を回復するものではありません。
 聖書が教える人間の幸福は罪からの救いと解放があってこそ実現するものです。それはまた、罪によって敵対関係になっていた神との関係を修復する和解もそこには含まれています。つまり、罪の問題の解決と神との和解が成立しなければ、人間の本当の意味での幸福はありえないと教えるのが聖書です。
 そのためにまことの救い主イエス・キリストが派遣され救いの業が成し遂げられたのですが、完全な救いの実現まではなお、終わりの時を待たなければならないというのが聖書の教えです。
 さて、このような中にあって、クリスチャンは今ある世界での幸せをどのように考えるのか、という問題なのだと思います。罪の問題が完全に解決されるまで、言い換えれば、神の国が完成するまで、なお、しばらくの期間を待たなければならないこの今の時代の中で、クリスチャンは幸せをどう考えるのかという問題です。
 まず、第一に、クリスチャンには救いの保証があるということです。その保証として一人一人に救いの証印として聖霊が与えられています。このことによって救いの確かさが保証されるとともに、約束されされた救いから現在を見渡すことができるという幸せが与えられているということです。つまり、現在の困難もやがては解決されるという希望のもとで忍耐する力を持つことができるのです。今ある苦しみをすべてと思い込んでしまわない心の余裕を持つことができるのです。
 第二に、クリスチャンにとっては、聖書を通して教えられる人間のあるべき姿と、人間の罪が生み出す欲望との間に違いがあるという認識があります。この両者に区別がないときに、人はあくなき欲望の追及へと走ってしまうのです。しかし、クリスチャンにとっては、いつもこの区別に対する意識がありますので、幸福の追求が欲望の追求へ陥ってしまうことに対して、いつも適度な歯止めを持つことができます。
 そうして、これら2つの事柄を通して、今置かれている自分の境遇を神に感謝し、同時に、将来に対しての明るい希望を持ちながら生きることができる幸せを手にすることができるのです。
 最後にパウロの言葉を引用して、救いの完成までの期間を生きるクリスチャンの幸福の結びとしたいと思います。フィリピの信徒への手紙4章12節13節です。

 「貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」

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