BOX190 2006年8月30日(水)放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: クリスチャンはいつも満足ですか? 大阪府 K・Nさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は大阪府にお住まいのK・Nさん、女性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

 「山下先生に質問があります。先生は不満に思ったり、満たされないと感じたことはありませんか。クリスチャンになったら、そういう思いを抱くことはいけないことですか。わたしは洗礼を受けて何年にもなりますが、つい不平や不満を口にしてしまうことがあります。やっぱりいけないことですよね。どうしたらよいのでしょうか。教えてください」

 K・Nさん、いつも番組を聴いてくださってありがとうございます。K・Nさんのご質問はきっとだれでもが悩んでいるところではないかと思います。大なり小なり、同じようなことで悩みを持っている方は多いのではないかと思います。
 ただ、ご質問にお答えする前に、ご質問の意味を明確にしておく必要があるように思います。「不満に思ったり満たされないと思う」と言う時に、具体的にどんなことをお考えなのでしょうか。「不満に思う」といっても事と場合によって、それが必ずしもいけないこととはいえない場合だってあるはずです。たとえば、誰かが職場で不当な扱いを受けているとします。その人の部署の責任者も見て見ぬふりをしているので、とうとう自分が立ち上がらざるを得なくなったとしましょう。きっと自分が立ち上がれば同僚たちも一緒に立ちあがってくれると思っていたのに、まったく我関せずの態度を取っている。そんなとき、そういう人たちの無責任で無関心な態度を不満に思うということが、果たしていけないことなのか、これは一概にいけないとは言えないでしょう。
 あるいは、毎日洗濯や掃除に時間を取られて自分の時間がなかなか持てないために充実した気持ちになれない。それで便利な洗濯機や掃除機を発明した。こんな場合、充実した気持ちになれないので、家事から解放されるために何か便利なものを生み出そうとする思いは、果たしてあってはならないことなのでしょうか。
 もっと簡単な例で、「美味しいものが食べたい」、「きれいな洋服を着てみたい」…そう思うこともクリスチャンとしていけないことなのでしょうか。
 わたしが思うに、神から与えられた向上心や正義感や美的感覚は、いつも人間の罪によって都合のいいようにゆがめられてしまいやすいと言うことです。不満に思うことや満たされないと思うことの全部がいけないのではなく、ただ、罪の影響によってゆがめられた不満と満たされない思いだけに注意を払う必要があるのです。
 この番組の中で何度も繰り返し述べてきたことですが、それが罪の影響から出てきたものであるのかどうか、それを見極める試金石となるものは、イエス・キリストが教えてくださった最も大切な戒めであると思います。
 イエス・キリストは私たちを教えてこうおっしゃいました。もっとも大切な戒めは、神を愛すること、そして、自分を愛するように人を愛すること。この二つであると。
 神を愛することと隣人を愛することに反する思いから出てくるものはすべて罪です。そういうものは追い求めるべきことではありません。
 満たされない思いが、ただの自己中心的な欲望に過ぎない場合には注意が必要です。特にその欲望を実現することが、結局は神への愛に反し、隣人への愛にもとる時、そのような欲望の追求は断じてしてはならないことなのです。

 さて、理想論として、神への愛と隣人への愛から出るもの以外を追い求めてはならないと言うことは分かっていても、実際にその通りにクリスチャンが生きることができるのかどうかという問題は、また別の問題です。
 もしも、クリスチャンが洗礼を受けた途端に、そのような生き方が可能になるのだとすれば、新約聖書に記されている勧めや命令はほとんど不要です。パウロが書簡の中で教会員たちにクリスチャンとしてのあるべき姿を描いているのは、逆にいえば、洗礼を受けたクリスチャンのほとんどは、まだ理想からほど遠い姿であると言うことなのです。
 実際、パウロはフィリピの信徒への手紙3章で、自分さえも完全な者ではないと語っています。むしろ、パウロ自身、完成と言うゴールを目指して走るランナーの一人なのです。新約聖書に出てくる、罪と戦うことを勧める言葉は、裏を返せば、私たちがまだ不完全であることを物語っているのです。しかし、だから不平に思ったり欲望にかられたりすることが仕方のないことだとは、聖書は一言も肯定しません。イエス・キリストは私たちの弱さに対しては心から憐みと同情をもって見てくださいます。しかし、罪に身をゆだねてしまうことをよしとしたりは決してなさいません。わたしたちの内に残る罪と弱さに対しては、それと戦い克服することを聖書は願っているのです。
 ただ、その戦いは私一人の戦いではないことも聖書は語っています。そのために主イエス・キリストは世の終わりまで私たちと主にいてくださることを約束してくださっています。また、ご自身に代わって聖霊を私たちに賜ることを約束してくださっています。イエス・キリストに助けられ、聖霊の導きに謙虚に信頼してこそ、私たちは理想のクリスチャンの姿へと変えられていくのです。その道のりは決して簡単な短いものではありません。けれども、到達できないような不可能で困難なことでもないのです。  聖書に拠れば、クリスチャンとは神の国への途上にある者たちです。完成された者たちではなく、完成の途上にある者たちなのです、長い人生の中で、クリスチャンとしての訓練をうけ、成長していくものなのです。
 この与えられた地上での生涯の中で、罪からくる不満な思いとそうでないものとを見分ける力が養われるのです。また、満たされない思いの原因が何に由来し、どのように解決することがふさわしいことなのかを、地上に生きる間、様々な機会を通して実践的に学んでいくのです。

 「クリスチャンのくせに不平や不満を漏らしてしまう、満たされない思いで過ごしている」といって自分を嘆くだけでは成長することができません。まして、そのような弱さを正当化したのでは進歩することができません。むしろ、自分の弱さに気がついたときこそが、いっそうキリストにより頼む機会であると同時に、聖霊なる神に信頼して自分自身を向上させていくチャンスなのです。

 最後にパウロの祈りを引用して結びたいと思います。これはラジオを聴いて下さっているあなたに対するわたしの祈りでもあります。
 「知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。」

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