聖書を開こう 2006年6月8日放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 「神が選んだ主の僕イエス」 マタイによる福音書 12章15節〜21節

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 福音書を読むときに、しばしば旧約聖書からの引用を目にします。旧約聖書からの引用であることが明示されている場合もあれば、ある聖書の個所を暗示するような形で引用されていることもあります。マタイによる福音書には今までも何度か「これこれは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった」という形で旧約聖書の預言書が引用されてきました(1:11、2:15、2:23、4:14、8:17他)。
 きょうこれから取り上げようとしている個所もイエスという人物とその活動を旧約聖書の預言の成就として捉えています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 12章15節から21節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 「イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。大勢の群衆が従った。イエスは皆の病気をいやして、御自分のことを言いふらさないようにと戒められた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者。この僕にわたしの霊を授ける。彼は異邦人に正義を知らせる。彼は争わず、叫ばず、その声を聞く者は大通りにはいない。正義を勝利に導くまで、彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない。異邦人は彼の名に望みをかける。」

 前回学んだ個所では、安息日に片手の萎えた男をイエス・キリストが癒したことで、ついにはファリサイ派の人々がイエス・キリストを殺そうとさえ思うようになったということが記されていました。
 今回の個所はその続きで、「イエスはそれを知って、そこを立ち去られた」と続きます。そして、イエスに従ってついてきた大勢の群衆をイエスは癒し、ご自分のことを言いふらさないようにと戒められたことが記されます。
 それから、マタイによる福音書は旧約聖書のイザヤ書42章1節以下の預言を引用して、まさにこの預言の言葉が成就するためであったと記します。
 そこで、マタイによる福音書はいったいどの点をさしてイザヤの預言の言葉が成就したと見たのでしょうか。
 なるほど、この預言が引用される直前には、ご自分のことを言いふらさないようにとイエス・キリストが戒められたと記されています。そう戒められた直前のイエスの行動を、あたかも説明するかのようにイザヤ書からの引用が続いています。
 確かに、そのイザヤの言葉によれば、神が選らんだ主の僕は「争わず、叫ばず、その声を聞く者は大通りにはいない」ような物静かな僕の姿です。そういう僕ですから、人々がご自分のことを言いふらすのを禁じられるというのはもっともな説明のように聞こえます。
 またその僕は「争わず、叫ばず」という姿勢を貫く僕なのですから、ご自分を殺そうと計画を立てるファリサイ派の人々の前から立ち去るイエスの姿を描いているとも取ることができます。つまり、なぜイエス・キリストはそれ以上ファリサイ派の人々と安息日の論争を続けられなかったのか、それは、預言者イザヤが預言している主の僕であるメシアが、争わず、叫ばず、その声を聞く者は大通りにはいないようなお方であったからだという説明が、この預言書の言葉によってなされているとも解釈されます。  さらには、直前の文脈ではファリサイ派の人々のもとを去ったイエスが、ご自分に従う群衆を見捨てずに、むしろ積極的に癒されたことが記されています。その姿は預言者イザヤが告げている「傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない」メシアの姿に似ています。つまり、多くの群衆をお癒しになるイエスこそ、預言者イザヤが預言した「傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない」メシアだと理解することもできます。

 確かに、そこに引用されているイザヤ書の言葉は、イエスの行動を逐一説明しているように見えます。けれども、マタイ福音書がこの預言の言葉を引用したのは、そうした細々としたイエスの行動を預言の成就としていちいち説明するためではなかったでしょう。むしろここで一番に注目すべきなのは、イエスを神が選んだ僕、遣わされたメシアとして捉えていることです。
 ファリサイ派の人々は安息日をめぐる論争の中でイエス・キリストがおっしゃったことを頑として受け容れようとはしませんでした。神殿よりも偉大な方、安息日の主であるお方を拒んだばかりか、抹殺してしまおうとさえたくらみ始めたのです。しかし、そのことは神さえも予想をできなかった事態では決してないのです。

 主である神は預言者イザヤの口を通して「見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者。この僕にわたしの霊を授ける」とおっしゃっていらっしゃるのです。

 イエス・キリストはユダヤ教の正統派であるファリサイ派の人々からは殺されようとしています。しかし、人からは捨てられても、神ご自身が選び、支持される僕なのです。
 しかも、ファリサイ派の人々を離れて、異邦人の宣教に向かう道こそ、預言者イザヤが預言したとおりなのです。神によって選ばれた主の僕は異邦人に正義を知らせる僕です。また、異邦人がその名に望みをかける僕なのです。
 確かに、イエス・キリストは12人の弟子たちを派遣するに当たって、「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。」(マタイ10:5-6)とおっしゃいました。しかし、イスラエルの家の失われた羊たちが心を頑なにすればするほど、異邦人の救いの道が開かれていくのです。人間の手によってイエスの活動は息の根を止めてしまわれるどころか、かえって世界的な広がりを持つようになるのです。しかも、それは預言者イザヤが預言したとおり、神の御心とご計画に適ったことだったのです。

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