聖書を開こう 2006年8月24日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: イエスと領主ヘロデの恐れ(マタイによる福音書14:1-12)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 この世の権力者の一番の強みは民に対して「生殺与奪の権」を持っているということでしょう。生かすことも殺すこともほしいままにすることができる暴君であればあるほど、民からは恐れられるものです。そして、生殺与奪の権を与えられた権力者には恐れるものがないはずです。
 しかし、何も恐れることのないはずの暴君に限って、良心の呵責に密かに悩み、それを打ち消そうとして悪事に悪事を重ねるというのはよくあることのようです。
 きょう取上げようとしている個所には、領主ヘロデの恐れと狂気の沙汰が記されています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 14章1節から12節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 そのころ、領主ヘロデはイエスの評判を聞き、家来たちにこう言った。「あれは洗礼者ヨハネだ。死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」実はヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアのことでヨハネを捕らえて縛り、牢に入れていた。ヨハネが、「あの女と結婚することは律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。ヘロデはヨハネを殺そうと思っていたが、民衆を恐れた。人々がヨハネを預言者と思っていたからである。ところが、ヘロデの誕生日にヘロディアの娘が、皆の前で踊りをおどり、ヘロデを喜ばせた。それで彼は娘に、「願うものは何でもやろう」と誓って約束した。すると、娘は母親に唆されて、「洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、この場でください」と言った。王は心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、それを与えるように命じ、人を遣わして、牢の中でヨハネの首をはねさせた。その首は盆に載せて運ばれ、少女に渡り、少女はそれを母親に持って行った。それから、ヨハネの弟子たちが来て、遺体を引き取って葬り、イエスのところに行って報告した。

 今お読みした個所は事件をさかのぼるかたちで記されています。特にこの個所に続く13節は「イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた」と続きます。うっかりすると、洗礼者ヨハネが領主ヘロデに殺されたことを聞いて、イエスはひとり人里離れたところに退かれたような印象を受けます。しかし、実際には13節に描かれるイエスの行動は、1節に述べられる領主ヘロデの言葉を受けての行動なのです。つまり、領主ヘロデがイエスの働きを見て「あれは洗礼者ヨハネだ。死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている」と言ったのを耳にしてイエスは人里離れた場所に退かれるのです。
 出来事を起った順に記すとこうなります。
 まず、領主ヘロデとヘロディアの結婚が律法に適わないことを洗礼者ヨハネが非難します。そして、そのことでヘロデは洗礼者ヨハネを捕らえて投獄してしまいます。ヨハネが逮捕投獄されたことはすでにこの福音書の最初の方、4章12節に記されています。やがて、時がたちヘロデの誕生日を祝う宴の席で、洗礼者ヨハネの首をはねざるを得ない状況が訪れます。舞を舞った娘へのご褒美にヨハネの首をせがまれて、後にはひけず、ヨハネを処刑してしまいます。そしてヨハネの弟子は遺体を引き取り、事の次第をイエスに報告したのでした。やがてイエスのことがヘロデの耳に入ります。
 ところで、先週学んだ個所では、イエスの故郷ナザレの人々は、イエスの教えと御業に驚いて「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう」と噂するようになったことを学びました。あたかもそれを受けるかのようにきょうお読みした個所が始まるのです。

 「あれは洗礼者ヨハネだ。死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている」

 ナザレの人々が「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう」と不思議がるのとは対照的に、領主ヘロデは自分が殺したはずの洗礼者ヨハネがよみがえってイエスの内で働いているのだと断定します。このヘロデの発言は何か根拠があっての発言でないでしょう。勝手な思い込みにすぎません。確かにイエスと洗礼者ヨハネは親類同士ですから、顔が似ているということはあったかもしれません。しかし、そこから一気にイエスが洗礼者ヨハネの生まれ変わりだと断言することは、領主ヘロデの妄想でしかありません。ヘロデにそう妄想させたのは、ヘロデの抱いた良心の呵責と恐れが原因だったのかもしれません。マルコ福音書6章20節によれば、ヘロデは洗礼者ヨハネが聖なる正しい人であることを知っており、その教えに非常に当惑しながらも喜んで耳を傾けていたからです。いずれにしても、ヘロデが心の中で下した断定は、決して事柄を良い方向へと動かすものではありませんでした。
 かつて民衆から預言者と慕われた人物を殺してしまったことを悔いて、奇跡を行なう力を持ったイエスに聞き従おうというものではありません、むしろ、その逆で、イエス・キリストすらも殺さなければならないと思うほどに自分の身の危険を感じたのでしょう。
 「あれは洗礼者ヨハネだ。死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている」と言う発言は少しも神の側へとヘロデを動かさないのです。マルコ福音書3章6節によれば、ヘロデの一党はファリサイ派と結託してイエスを殺そうと既にたくらんでいました。イエスが自分が処刑したはずのヨハネの甦りであるとするなら、イエスを殺さねばならないという強迫心と確信はいっそう強まったことでしょう。
 さて、マタイ福音書はこのこと全体を通して何を読者に語りかけようとしているのでしょうか。一つには生殺与奪の権をもった権力者の力が、実はその心の内側ではいかに弱々しいものであるかを語っています。むきになっているヘロデは誰よりもこころが怯えているのです。
 しかし、マタイ福音書が語るもう一つのポイントは、このようにしてイエスは受難の道を歩み始められたということです。ヨハネが権力者から迫害を受けたように、イエスも同じ苦難の道を歩み始めるのです。いえ、同じ道なのではなく、十字架の死に向かうもっとも苦難に満ちた道をイエスは歩みはじめられたのです。

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