聖書を開こう 2006年9月14日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 神の言葉を重んじ、心を清めよ(マタイ15:1-20)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 きょうの個所には人間の言い伝え重んじるファリサイ派の人たちのことがでてきます。彼らの誤りとはいったいどの点にあったのでしょうか。さっそくご一緒に学ぶことにしましょう
 それでは早速今日の聖書の個所をお読みします。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 15章1節から20節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 そのころ、ファリサイ派の人々と律法学者たちが、エルサレムからイエスのもとへ来て言った。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません。」そこで、イエスはお答えになった。「なぜ、あなたたちも自分の言い伝えのために、神の掟を破っているのか。神は、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っておられる。それなのに、あなたたちは言っている。『父または母に向かって、「あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にする」と言う者は、父を敬わなくてもよい』と。こうして、あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている。偽善者たちよ、イザヤは、あなたたちのことを見事に預言したものだ。『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとして教え、むなしくわたしをあがめている。』」
 それから、イエスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。」そのとき、弟子たちが近寄って来て、「ファリサイ派の人々がお言葉を聞いて、つまずいたのをご存じですか」と言った。イエスはお答えになった。「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、すべて抜き取られてしまう。そのままにしておきなさい。彼らは盲人の道案内をする盲人だ。盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう。」するとペトロが、「そのたとえを説明してください」と言った。イエスは言われた。「あなたがたも、まだ悟らないのか。すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか。しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。これが人を汚す。しかし、手を洗わずに食事をしても、そのことは人を汚すものではない。」

 きょうの聖書の場面はファリサイ派の人々と律法学者たちがイエスのもとへやって来る場面から始まります。ファリサイ派の人々と律法学者たちは今までにも何度か登場してきましたが、今回登場するのはエルサレムからやってきたファリサイ派の人々と律法学者です。おそらくそれはユダヤの最高法院であったサンヘドリンとかかわりのある人たちであったのでしょう。イエスの噂は都エルサレムにまで達し、その運動について調査に乗り出したのだと思われます。しかも、中立的な立場で調査すると言うよりは、すでに12章で学んだと通り、ファリサイ派の人々は、イエスを殺そうと相談をはじめていたのです(12:14)。その報告も中央のファリサイ派の耳に入っていたことでしょう。
 その彼らが目にしたものは、洗わない手で食事をするキリストの弟子たちの姿でした。ファリサイ派の主張によれば、それは昔の人たちの言い伝えに反する行いだったのです。
 食事の前に手を洗う習慣は言うまでもなくユダヤ人の宗教的習慣と結びついたものでした。その習慣は異邦人のとの交わりからくる汚れを清めるという宗教的な意図から出たものです。その意味では、食事の前に手を洗うと言う習慣は聖書的な生活の具体的な適用ということがいえるかもしれません。しかし、実際には聖書自身がそのことを直接命じているわけではないのですから、必ず守らなければならないというほどの拘束力を持った教えではなかったはずです。けれども、ファリサイ派の人たちの主張は時として神の言葉に矛盾することさえ強制力をもって主張されていたのです。
 その具体的な例としてイエス・キリストは『コルバン』に関する彼らの規定が聖書の教えと矛盾しているものであることを指摘なさいます。「父と母を敬え」と神が明確に命じているにもかかわらず、父または母に向かって、「あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にする、コルバンである」と言えば、そのものを父や母に差し出す必要はなくなると教えたのです。そうすることで「父と母を敬え」という十戒の教えが例外的に適応されないこともあると主張したのです。こうして、彼らは聖書の権威を自分たちの解釈の下に置いてしまったのです。イエス・キリストはそうしたファリサイ派の欺瞞的な宗教生活のあり方に対して抗議をなさったのです。
 一方で聖書には直接命じられていない「清めのための手洗い」を盾に弟子たちを弾劾し、他方では「コルバン」に関する規則によって、はっきりと聖書に矛盾している者の罪を良しとしてしまっているのです。この矛盾に気がつかないほど、彼らは神の言葉とそれが教える神のみ心に無感覚になってしまっているのです。

 ではなぜこのような矛盾した生き方を平気でなすことができるのでしょうか。イエス・キリストは預言者イザヤの言葉を引用しながらこう指摘しておられます。

 「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。」

 結局、彼らの神への畏敬の念は、口先だけのものに過ぎないという厳しい指摘です。表面上は確かに神の権威を重んじているように見えても、その心は神の御心を理解できず、知ろうともしていないのです。

 さて最後にイエス・キリストが指摘されたことは、「清さ」と「汚れ」に関するファリサイ人たちの誤った考えでした。イエス・キリストは群衆を呼び寄せてこうおっしゃいました。

 「聞いて悟りなさい。口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。」

 さらにその真意を解説して、こうもおっしゃいました。

 「すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか。しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。」

 ファリサイ派の人たちは、あたかも心の汚れが、異邦人との接触によって外から内側へもたららされるかのように考えていたのに対し、イエス・キリストは人の心そのものを問題とされていたのです。「悪意、殺意」などの汚れた思いというのは、外から中に入ってくるのではなく、むしろ、心のうちにあるものが形となって外へ表れてきているのです。そういう意味で、心の奥底から清めていただかない限り、本当の清さの実現はありえないのです。そういう人間の心の奥底に潜む汚れに気づかされてこそ、神の御前に清く正しく生きることを切望する思いが与えられるのです。

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