聖書を開こう 2006年12月14日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 天国のVIP(マタイ18:1-5)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 英語にVIPと書いて「ヴィップ」という言葉があります。very important personつまり「重要人物、要人」ということです。要人というのは、その責任を考えると大変な立場なのですが、しかし、みんなからかしずかれると言う点では、心地のいい立場であるのだと思います。
 「だれが一番偉いのか」というのは、人間にとってよほど大切な問題のようです。キリストの弟子たちですら一度ならずイエスに尋ねています。
 さて、イエス・キリストはその質問に対して、いったいどうお答えになったのでしょうか。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 18章1節から5節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」

 きょうの聖書の箇所は「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」という弟子たちの質問から始まっています。とても興味深い質問です。
 なぜ弟子たちはこんな質問をそもそもしたのでしょうか。天国に行ったとき、だれを敬うべきか、それが気になったのでしょうか。おそらくそうではないでしょう。むしろ、当然自分たちが天国で第一の座を占めるべきだと思って、こんな質問をしたにちがいありません。もう少し後のところに出てくる話ですが、ヤコブとヨハネの母親は、自分の息子たちが右大臣左大臣のような地位につくことを願ってイエスのもとへやってきたことが記されています(マタイ20:20以下)。それくらい、天国の重要人物になることには関心が高かったのでしょう。

 けれども、この質問に対するイエスの答えは、弟子たちの予想からはるかに外れたものでした。イエス・キリストはおっしゃいました。

 「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」

 ここに二度「子供のようになる」という表現が出てきます。子供のようになる者が天の国、神の国への入国資格を与えられ、子供のようになる者が天の国、神の国でいちばん偉いのです。
 では、いったい「子供のようになる」とはどういう意味のことなのでしょうか。もちろん、もう一度子供になるために母親のお腹の中に戻って赤ちゃんからやりなおすと言うことではないでしょう。これはあくまでも子供をたとえに出した比喩に違いありません。いったい子供のどういう側面を捉えて、イエス・キリストはこうおっしゃったのでしょうか。それが問題です。
 もちろん、新約聖書の中では、イエス・キリストを信じる者は神の子とされる特権が与えられています(ヨハネ1:12)。そして、何よりも聖霊を受けた者は、恐れを抱かせる奴隷の霊を受けたのではなく、「アッバ父よ」と呼ぶ子としての霊を受けたのです(ローマ8:15)。そういう意味で、子供のようになるというのは、「アッバ父よ」と神を呼べるような関係に入ることを指す場合もあるでしょう。
 しかし、ここでイエス・キリストがここでおっしゃっている「子供のよう」といっているのは、そういう子供の側面ではなさそうです。むしろ、「自分を低くして子供のようになる」と言うことが言われているのですから、ここでは子供の無価値さと言うことを言っているのだと思われます。誤解をしてはならないのですが、イエス・キリストは子供を無価値だとおっしゃっているのではありません。そうではなく、この世の例に倣って、「あなた方が取るに足りないと思っているこの子供のようになりなさい。そのために自分を低くしなさい」とおっしゃっているのです。
 確かに、神の御前で子供がどのような価値があるのかということではなく、イエス・キリスト時代のローマやユダヤの社会では、残念ながら子供には大きな価値があるとは思われていませんでした。むしろ、取るに足りない者、低い者というのがその当時の子供に対する一般的な物の見方でした。ですから、後に19章で出てくるように、イエス・キリストのもとに子供たちを連れて人々がやってきますと、弟子たちは、子供たちを追い払おうとします。つまり、子供たちにはそれほどの価値はないと思ったからです。
 5000人への給食の奇跡にしても、4000人の人々への給食の奇跡にしても、数が数えられているのは成人の男子だけです。女と子供は数に入らないと言うのが、その当時の社会でした。
 つまり、イエス・キリストがおっしゃろうとしたことは、自分から取るに足りない者のように振る舞うものが、天の国への入国が許されるのだと言うことなのです。
 したがって、弟子たちは「天の国では誰が一番偉いのですか」と問いかけた時点で、すでに天国への入国資格を失っているのです。たとえもし、神の国に入ったとしても一番ではありえないのです。
 自分を価値ある者、自分を偉い者、尊敬に値して仕えられるに当然の者と思う者こそ、天国ではもっとも低い者なのです。
 別のところでイエス・キリストはこうもおっしゃいました。

 「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。」(マタイ20:26-27)

 仕える者、皆の僕となる者こそが天の国では一番偉いのです。イエス・キリストはご自分の弟子たちがそうなることを願っているのです。

 さらに、イエス・キリストは続けてこうおっしゃいました。

 「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」

 取るに足りない者、価値のないと思われる者を受け容れることは難しいことです。それが難しいのは取るに足りない者を取るに足るだけの価値を与えることが難しいからではありません。そうではなく、結局は人を取るに足りないだとか、価値がないだとかを決め付けてしまう私たちの心を変えることが難しいからです。

 キリストはこの弱い兄弟のためにも十字架の上で尊い血潮を流されたのだと信じ、受け容れることができる人こそ、神の国で一番偉いのです。

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