聖書を開こう 2006年12月21日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 小さな者をつまずかせない(マタイ18:6-14)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 「つまずく」と言う言葉は、文字通りには何か障害物につま先を取られて前へよろけることを言います。そこから転じて、比喩的な意味で挫折したり失敗したりする時にも「つまずく」と言う言葉を使います。
 しかし、キリスト教会で「つまずく」と言う場合には、もっと独特な意味があります。その場合、障害物となるのは、大抵は人の言動や教えです。正しい教えについていけなくて「つまずく」という使われ方もあります(マタイ13:57、1ペトロ2:8)。しかし、大抵は人の正しくない言動に「つまずく」という使われ方です。しかも、それは神を信じる共同体の中での出来事として「つまずく」という言葉が用いられるのです。
 きょうの箇所にはこの「つまずく」という言葉がたくさん出てきます。
 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 18章6節から14節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。世は人をつまずかせるから不幸だ。つまずきは避けられない。だが、つまずきをもたらす者は不幸である。もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい。両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。両方の目がそろったまま火の地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても命にあずかる方がよい。」
 「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。
 あなたがたはどう思うか。ある人が羊を100匹持っていて、その1匹が迷い出たとすれば、99匹を山に残しておいて、迷い出た1匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた99匹より、その1匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」

 きょうとりあげた箇所は先週の続きです。弟子たちがイエス・キリストに「天の国で誰が一番偉いのか」と言うことを尋ねた時に語られた一連の言葉の続きです。
 前回取り挙げた個所では子供のようになる人が天国で一番偉いのだということを学びました。またそれを受けて「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」とおっしゃるイエスの言葉を学びました。
 きょうの箇所では、つまずきをもたらす者の不幸が取上げられます。直前のところでイエスが語られた「このような一人の子供を受け入れる」ということに対して、「これらの小さな者の一人をつまずかせる」ということの重大さが取上げられるのです。これは弟子たちがイエスになした「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」という質問と無関係ではありません。天の国で最も偉い者は、自分から進んで子供のようになる人であると同時に、小さな者を受け容れる人です。裏を返せば、小さな者をつまずかせるものは、天の国ではもっとも不幸な者なのです。小さな者をつまずかせることの重大さを表現して、イエス・キリストはこうおっしゃっています。

 「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。」

 首に大きな石臼を懸けられて、海中深く沈められてしまうということは、決して尋常なことではありません。しかし、小さな者をつまずかせて受ける報いと比べれば、なお、海深く沈められることの方がましだとキリストはおっしゃるのです。それぐらいに事は重大なのです。
 もっとも小さな者をつまずかせるなどということは、神を信じる教会ではまずありえないことと思われがちです。あったとしても、ほんの例外であるか、100年に1回あるかないかのできごとだと思いがちです。
 しかし、イエス・キリストは畳み掛けるようにおっしゃいます。

 「世は人をつまずかせるから不幸だ。つまずきは避けられない。だが、つまずきをもたらす者は不幸である。」

 確かに「教会はこの世と違うから大丈夫だ」という考えもあるかも知れません。しかし、教会もこの世に置かれているのです。クリスチャン一人一人はこの世の中で生活をしているのです。「つまづきは避けられない」とおっしゃるイエス・キリストの言葉を真剣に受け止めなければいけません。この世の影響を過少評価してはいけません。また、自分たちの力を過大評価してもいけないのです。「つまずきは避けられないもの」と心すべきなのです。しかも、イエス・キリストは「だから仕方のないことだ」とはおっしゃいません。むしろ、「つまずきをもたらす者は不幸である」と断言なさっているのです。
 天の国で一番偉い者は人をつまずかせることに敏感な人なのです。

 ところで、イエス・キリストはわざわざ「小さな者の一人をつまずかせる者」とおっしゃっています。人間と言うのは知らずのうちに他人を評価して、序列をつけたがるものです。そのこと自体がいけないこととは言いがたいかもしれません。しかし、評価と序列をつけ終わった後に、小さな者たちへの関心が薄れていくのも人間の弱さです。たとえつまずいたとしても相手は取るに足りない小さな者に過ぎないと感じる心の鈍さをキリストは指摘していらっしゃるのです。

 「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい」

 そのようにキリストは弟子たちにおっしゃっています。そもそも、天の国で誰が一番かなどと思う心に、小さな者を軽んじる心の隙があるのです。
 イエス・キリストは引き続き99匹と1匹の羊のたとえ話をお話になります。イエス・キリストは100匹の羊のうち、99匹が留まっていれば合格だとはおっしゃらないのです。たとえ1匹でも失われることは神の御心ではないのです。1,000匹の羊であっても、10,000匹の羊であっても同じです。1匹が足りないことを異常と感じる心が大切なのです。何人残っているかと言うことに安心を見出すのではなく、つまずいた一人のことを心に留めることができる者こそ、天の国で一番偉いと言われるにふさわしい者なのです。

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