キリストへの時間 2007年1月21日放送    キリストへの時間宛のメールはこちらのフォームから送信ください

久保浩文(高知教会牧師)

久保浩文(高知教会牧師)

メッセージ: わたしは神によって造られた

 おはようございます。高知教会の久保浩文です。
 皆様は、人生の目的、自分は何のために生きているのかについて考えたことがおありでしょうか。青少年期の方たちの中には、そんな辛気臭い、しけた話しはもう少し先延ばしにして、ある程度年齢がいってから、ユックリ考えればよい、と思われる方もあるでしょう。若い時、青春時代は、そう長くないし、もう二度とないのだから、思い切り青春時代を謳歌して、食べたり飲んだり、楽しく生きることが大切だ、と思うのも無理はないかもしれません。

 私達、人間の一生はみな、限りがあります。人間も、他の生き物、動物と変わることなく、この世に生を受けて生まれてきた以上、いつかは、その終わりのとき、死を迎えなければいけません。社会的な地位とか人種に関係なく、死は全ての人間に平等に訪れます。誰一人、避けて通ることはできません。しかも、死はいつどのような形で訪れるかわかりません。
 しかし、ある一面で、いつ訪れるかもしれない死から目をそらすために、この世の様々な快楽に興じたり、夢中になっているだけだとすればどうでしょうか。あることに熱中し、心を傾けている間はよいとしても、ふと、忘れていた事柄が脳裏をよぎってきて、様々な不安と言い様のない恐れにとりつかれてしまうこともあるのではないでしょうか。人間は、自分自身が思っているほど、強くはありません。むしろ、風の前の塵に同じで、強風が吹けば、一瞬にして吹き飛ばされて、何処へやら跡形もなくなってしまうことでしょう。

 私がまだ高校生の頃のことです。ある夏の夜、日ごろの不摂生が祟ったのか、風邪を引いたのかわかりませんが、高熱にうなされたことがあります。夜中に何度も怖い夢を見ては、目が醒め、気持ちの悪い寝汗をかいて、という状態でした。その時に私の脳裏をよぎったことは、自分は一体、何の病気で、しかも、このままどうなるのだろうか、という思いでした。熱にうなされながらも、「神様、助けてください。早く私を治して下さい。」と心の中で必死に叫んで神様を呼び求めていたことを思い出します。翌日、家人に付き添われて病院に行き、痛い注射を一本打ってもらって帰宅しました。数日後、これまでの苦しみが嘘のように消え、床から起き上がることができました。私はその時、生きていること、いや、生かされていることの素晴らしさを実感し、神様に感謝せずにはおれませんでした。

 幼い頃から日曜日の朝には友人教会学校に通い、神様、イエス・キリストの話を聞いて育ってきましたが、「神様は、天地とその中の全ての物をお造りになられました。私達人間も神様によって造られました。」というお話しが単なるお話しではなくなり、まぎれもなく「私を造られた神様」、造られただけでなく、今も生命を与えて下さり生かして下さる神様であることを実感したのです。神様が私をこの世に生まれさせて下さったのであれば、きっと、私をお造りになった意味と目的があるにちがいない。神様を心から信じて、造って下さった神様の目的にかなった人生にしなければ、と思いました。そして高校一年のクリスマスにイエス・キリストを主と告白することができたのです。これからの人生、全てを神様に委ねて生きていこうと思ったのです。その時の心境はおよそ次の聖書の言葉のようなものでした。「あなたは、わたしの内臓を造り、母の胎内にわたしを組み立てて下さった。わたしはあなたに感謝をささげる。」詩編139編13、14節の言葉です。

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