聖書を開こう 2007年2月22日放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 何をしてほしいのか(マタイ20:29-34)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 一昔前、将来の希望について尋ねられれば、男の子なら「兵隊さんになりたい」という答えが返ってきた時代があったそうです。さすがにわたしの時代には、そういう答えは聞いたことがありませんが、当り障りのないところで、「いい大学に入って、いい会社に勤めたい」というのが大抵の人が描くささやかな希望であったように思います。ところが今の時代には、いい大学に入って、いい会社に勤めたからと言って、幸せな暮らしが保証されるという時代でもなくなってきました。年功序列ではなく実力主義の時代ですから、いい会社に入っても実力がなければ上に昇っていくことができません。いい会社だと思っていたのが、ひょんなことから倒産するということだってある時代です。そんなことから、「何になりたいか」と尋ねられても、そう簡単に自分の夢など語れなくなっているような時代です。
 これが宗教的な希望についての質問の場合、答えは両極端に分かれます。宗教に何を期待するのか、と問われると、一方ではただ現世の利益を求める答えだけが返ってきます。他方では、そもそも宗教には何も期待しないか、宗教的な希望を嫌悪する答えが返ってきます。
 きょう取り上げようとしている箇所で、イエス・キリストは自分のもとへやってきた者たちに「何をしてほしいのか」と尋ねます。このキリストからの問いかけにわたしたちはどう答えるのでしょうか。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 20章29節から34節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 「一行がエリコの町を出ると、大勢の群衆がイエスに従った。そのとき、二人の盲人が道端に座っていたが、イエスがお通りと聞いて、『主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください』と叫んだ。群衆は叱りつけて黙らせようとしたが、二人はますます、『主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください』と叫んだ。イエスは立ち止まり、二人を呼んで、『何をしてほしいのか』と言われた。二人は、『主よ、目を開けていただきたいのです』と言った。イエスが深く憐れんで、その目に触れられると、盲人たちはすぐ見えるようになり、イエスに従った。」

 先週取り上げた箇所では、ヤコブとヨハネの兄弟が母親を伴ってイエスのもとへとやって来ました。そのとき、イエス・キリストは母親に「何が望みか」と尋ねました。
 きょうの箇所でもキリストはご自分のもとへとやってきた二人の盲人たちに「何をしてほしいのか」とお尋ねになります。そういう意味で、この前後する二つの話は、私たちがキリストにいったい何を願っているのかと言うことを考えさせる話です。そして、前後する二つの話は対照的な願い事でした。

 さて、今日の話はイエスの一行がエリコの町を出るときに起った話です。マタイ福音書19章1節によると「イエスは…ガリラヤを去り、ヨルダン川の向こう側のユダヤ地方に行かれた」ということでした。そして、20章17節によるとその旅はエルサレムへ上る旅であることが分かります。エリコの町と言うのはエルサレムから距離にして20キロちょっとのところにある町です。昔から交通の要所でしたから、そこには通行税を取り立てる徴税所もありました。徴税人の頭であったザアカイがいたのもこの町でした。このエルサレムへ向かう旅の目的は、イエス・キリストが何度か口にしていたように、人の子であるイエス・キリストが十字架におかかりになって、救いの業を完成させるためでした。ただ、時期は丁度ユダヤの過越の祭りが近づいていた時でしたから、他にも多くのエルサレムに向かう者たちがこのエリコの町を通っていたことと思われます。そうしたエルサレム巡礼の人々に紛れてイエス・キリスト一行も旅を続けておられたのでしょう。
 ところが、イエスの名はこの町でも知れ渡っていたようです。町を出ようとするイエスを執拗に呼び止める者たちが二人おりました。確かにエリコのように人の出入りが多い場所には、物乞いをする者たちも多くいたと思われます。おそらくこの二人の他にも施しを乞う者たちはいたことでしょう。しかし、この二人は他の物乞いたちとは違って、イエスに向かって乞う叫んだのでした。

 「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」

 「主よ」と言う呼びかけや「ダビデの子」という称号を、いったいこの二人がどこで学んだのかは分かりません。ひょっとすると、雑踏の中で人々がイエスをそう呼んでいるのを漏れ聞いたもかもしれません。あるいはイエスがなさった数々の噂はこの二人の盲人にも届いていたのかもしれません。いずれにしても、目が見えないこの二人にとって、イエスがそのような呼び名にふさわしいかどうかを外見から判断することはできなかったはずです。いえ、目に見えるところによって判断しなかったからこそ、純粋に信じることがこの二人の心を動かしたのかもしれません。この二人の心にとって、イエスは主であり、ダビデの王位を継承するメシアと映ったのです。

 「主よ、ダビデの子よ」と呼びつづけます。もちろん、この二人が描いていたメシアのイメージは、イエスが予告なさった十字架と復活のメシアであったとは思えません。しかし、自分たちの必要に応えて下さるには十分なお方と映ったことは間違いありません。

 彼らが町を出ようとするイエスに願いつづけたことは、「わたしたちを憐れんでください」と言うことでした。もちろん、その言葉は、物乞いたちが施しを乞うときに使うありふれた言葉かもしれません。しかし、この二人が他の物乞いたちとは違っていました。

 「何をしてほしいのか」と足を止めて問いかけるイエスに、この二人は「主よ、目を開けていただきたいのです」と即答したのです。

 そもそも、このような場所で物乞いをする者たちには物やお金を施すのが普通です。物乞いもそれを心得て通行人を呼び止めているはずです。呼び止められた方も、わざわざ「何をしてほしいのか」などと聞いたりはしないものです。黙ってお金を施すか、見て見ぬふりをして通り過ぎるかのどちらかです。あえて「何をしてほしいのか」と聞いても、返ってくる言葉は「お金を恵んでください」「食べる物をください」という答えでしょう。
 しかし、この二人の答えは違っていました。即座に「主よ、目を開けていただきたいのです」と答えたのです。
 その答えからも想像がつく通り、この二人がイエスを呼びかけた言葉…「主よ、ダビデの子よ」と言う言葉は、ただの美辞麗句ではなかったのです。また、「わたしたちを憐れんでください」と言う言葉も、ただのお金を目当てとした物乞いが使う言葉とは、その意味深さが違っていたのです。この二人は自分の人生にとってほんとうに必要なものを救い主に期待していたのです。
 それはこのエピソードを締めくくる「盲人たちは…イエスに従った」という言葉からも伺われます。このイエスに従う姿勢はただのご利益を求める信仰とは異なります。
 さて、わたしたちはこの「何をしてほしいのか」というイエス・キリストの問いかけに、期待を込めて答えるものをもっているでしょうか。そして、それがかなえられる時、イエスに従う思いをもっているでしょうか。

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