聖書を開こう 2007年5月31日放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: それから終わりが来る(マタイ24:1-14)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 西暦2000年を迎えるとき、一方では「ミレニアム」という言葉が大流行してお祭り騒ぎでした。しかし、他方では終末的な危機を言い広める人々も数多くいました。あれから7年経った今では、ミレニアムという言葉はすっかり忘れ去られ、終末の危機を説いて回った人たちもすっかりなりを潜めています。
 当時を思い返してみて、行き過ぎた終末思想には困ったものを感じます。しかし、世の終わりについてまったく関心を失ってしまっている今を見て、それもまた大きく振り子が揺れ戻り過ぎているように思います。
 きょう取り上げようとしている箇所にはイエス・キリストが説く終末についての教えが記されています。
 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 24章1節から14節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 イエスが神殿の境内を出て行かれると、弟子たちが近寄って来て、イエスに神殿の建物を指さした。そこで、イエスは言われた。「これらすべての物を見ないのか。はっきり言っておく。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」
 イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがやって来て、ひそかに言った。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。」イエスはお答えになった。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」

 きょうの箇所は、エルサレムの神殿を指差してイエスの注意を促す弟子の姿から始まります。残念ながらマタイ福音書にはそのとき弟子たちがどんなことを言ってイエスの注意を促したのか書いてはありません。ただマルコ福音書には、弟子たちがこんなことを言ったと記しています。

 「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」(マルコ13:1)

 エルサレムの神殿はヘロデ大王によって紀元前19年から再建工事が進められていましたが、46年経ったイエスの時代にもまだ完成していませんでした。それほどに巨大で目を見張る建物だったのです。弟子たちが思わず感嘆の声をあげた「なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう」という言葉は、決して大袈裟な誇張ではなかったのです。
 弟子たちがそうして神殿にイエスの注意を向けさせたのは、その直前でエルサレムについてイエス・キリストがおっしゃったことと関係があります。それはイエス・キリストが「見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる」とエルサレムをさして断言なさったからでした。しかし、あの何十年もの歳月をかけて建て上げられた巨大な神殿が、そう簡単に崩れ去るとは弟子たちには思えません。
 けれども、そんな弟子たちに対してイエス・キリストは重ねておっしゃいました。

 「これらすべての物を見ないのか。はっきり言っておく。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」

 その日、弟子たちはオリーブ山で夜を過ごされるイエスのもとにやってきて早速尋ねます。

 「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。」

 そこでイエス・キリストは弟子たちに世の終わりのしるしについて語り始めます。開口一番にイエスの口から出た言葉は、「人に惑わされないように気をつけなさい」というものでした。そして「そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない」とおっしゃいます。
 わたしたちの興味はいつどんな前兆で世の終わりがやってくるのかということに注がれがちです。弟子たちの質問もその点に関心があったのです。しかし、イエス・キリストが心配なさっていることは、まさに、時や前兆を知って終末に備えようとする関心が、前兆に心奪われ、人に惑わされる結果となってしまうということなのです。

 では思わず世の終わりであると惑わされてしまうような出来事とは何でしょうか。イエス・キリストおっしゃいます。

 「わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞く」

 自分はメシアだと自称する偽メシアの出現と戦争のうわさをあちこちで耳にすることがその時代の特徴なのです。しかし「まだ終わりではない」とイエス・キリストは注意を呼びかけています。さらにイエス・キリストは終末に向かう時代の出来事として「民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる」とおっしゃいます。しかし、それでも、「これらはすべて産みの苦しみの始まりである」とイエス・キリストはおっしゃるのです。
 産みの苦しみ、陣痛というのは予備知識があるからこそ、慌てたり気が動転したりしないで乗り越えることができるものです。もし、陣痛についての知識がまったくなければ、繰り返し襲ってくる突然の痛みになす術も希望もなくのた打ち回るだけです。
 イエス・キリストはこの生みの苦しみの時にクリスチャンたちを襲う苦しみを次々に描いていきます。

 「そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。」

 イエス・キリストが弟子たちに世の終わりの徴についてお語りになるのは、決して彼らが惑うことのないようにです。また、希望をもって苦難に耐えるようにとの願いがあるからです。それは「産みの苦しみ」と表現されているように、世の終わりというよりは、むしろ何か新しいことがこれから生み出されようとしている喜びの時だからです。聖書は世の終わりのことを万物が更新されるときと呼んでいますが、それは喜ばしいことが生み出される時なのです。だからこそ、惑わされて右往左往してはならないのです。だからこそ、最後まで耐え忍ぶ忍耐が求められているのです。

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