BOX190 2008年11月19日(水)放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 美容整形の是非は? N・Kさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はN・Kさん、女性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

 「わたしは韓国ドラマが好きでよく観ます。先日、牧師の娘さんが整形外科医になっているドラマがありました。神様がくださった身体を人工的に自分好みに変えることは問題ないのでしょうか」

 N・Kさん、お便りありがとうございました。わたしも韓国ドラマは好きなのでよく観ていますが、そのドラマはまだ観ていないようです。
 海外のドラマを観ていて思うことは、やはりその国のお国柄と言うものがよく出ていると言うことです。たとえば、韓国ドラマの場合、主人公がアメリカやフランスに気軽に留学する場面が出てきます。日本のドラマではそんなに気軽に留学する登場人物はいません。
 実際に留学する人の数が、日本と韓国でどれくらい違うのか正確な統計を取ったことはありませんが、自分の経験からいって、留学先の学校には周りに韓国の学生が大勢いました。しかも、さらにドクターコースを目指して残る人たちもずっと多いように感じました。
 そういう韓国の教育事情は韓国ドラマにとてもよく表れているように思います。

 同じように美容整形手術に関しても、日本ほど抵抗感なく受け容れられているようです。どこまで本当か裏を取ったわけではありませんが、韓国では就職前の娘の誕生日に、整形手術の費用をプレゼントする親もいると聞いたことがあります。もちろん、それが一般的に行なわれていることとは思いませんが、少なくともそういう話題が出るくらい、整形手術に対して日本よりもずっとオープンな考えなのだと思いました。

 わたしの予想ですが、おそらくN・Kさんが観たドラマの背景にもそうした韓国のお国事情が自然と溶け込んでいるのではないかと思います。

 さて、本題ですが、整形外科というのは美容外科とは全く違った診療科目です。一般的に整形手術というと、目鼻立ちなどを変える美容整形手術のことを思い浮かべることが多いと思います。ご質問に出てくる「整形外科」も厳密な意味での「整形外科」ではなく、「美容外科」のことを問題にされているのだと思います。そこでこれから取り上げることは、美容外科の問題に限ることにします。

 キリスト教的な観点で美容整形の問題をどう考えるのか、というのが今回のご質問です。今回のご質問では、質問者ご自身がこの問題についての一定の判断基準をまず示しています。
 それは先ず第一に、「身体は神から与えられたものである」という大前提があります。キリスト教的なものの考え方からすれば、確かにそれは譲ることのできない大前提です。もっとも、自分の身体をどう使うべきかという問題は、キリスト教の前提に立つとしても立たないとしても、考えるべき事柄であることは間違いありません。つまり、キリスト教の前提に立てば必然的に美容外科手術を禁じるという結論になるとは限らないし、また、キリスト教の前提に立たなければどんな美容外科手術も許されるという結論ではないはずです。

 第二に、問題点となる基準に「人工的に」という制限を加えました。「人工的に」というのは「自然に」という言葉と対立するものです。しかし、どこまでが自然でどこまでが人工的なのか、という区別はそんなにはっきりするものではありません。
 たとえば、美しい筋肉質の体を鍛え上げるためにスポーツジムの機械や道具を使ったとします。それは人工的なのでしょうか。それとも自然なのでしょうか。あるいは筋肉質の体を維持するためにプロテインの摂取を効率的にする健康食品を用いることは人工的なのでしょうか。それとも自然の方法と言えるのでしょうか。それとも、メスを使った外科的なものだけが人工的だとして問題とされるべきなのでしょか。

 第三に問題となる基準に「自分好みに」という基準を挙げています。もちろん、自分好みでない美容整形などありえないのですから、自分の好みでなければ許される場合があると言うことではないでしょう。
 しかし、よくよく考えてみると、この「自分好み」というのは、社会現象によって影響されているものです。人が生まれ持った顔やスタイルは社会現象とは関係なく、人それぞれが生まれた時から違った顔やスタイルを持っているわけです。ただその時々の文化や社会的風潮によって、その時代に好まれる顔やスタイルがあるということがあるのです。逆にいえば、どんな顔やスタイルでもそれによって不利益な扱いを受けずに同じ様に扱われるのだとしたら、果たして「自分好みに」変える必要性がどれほどあるでしょうか。

 以上の事柄を考えただけでも、この問題が簡単に答えることのできる問題ではないことが良く理解できると思います。

 確かに人間の身体は神から与えられたものであることはキリスト教的な考えですが、与えられた身体を維持するだけに留まるというだけでは、キリスト教的であるとはいえないのではないかと思うのです。肉体を鍛えるということも、また、より美しくあるということも、共に神から身体を授かった管理者としての人間に当然求められるべきことだと考えられるのではないでしょうか。一タラントンの賜物をいただいたものが一タラントンをそのまま返しただけでは十分と言えなかったように、あらゆる点で神からの授かりものは維持し発展させるものと考えるべきでしょう。
 ただ、この場合、「より美しい」とはどういうことなのか、その基準が人間には分かっていないという点に大きな問題の根があるのです。キリスト教的なものの見方からすれば、美に対する感覚のあやふやさには、堕落と罪の問題が深く関わっているのかもしれません。

 それよりも、さらに問題なのは、美しくないものを避けるという神から与えら得た機能が、差別的に働くという問題点です。「より美しくあること」が神によって求められているとすれば、「美しくないこと」は避けるべきこととして理解されるのは当然です。ところが、美の基準も美ではない基準も、人間の堕落と罪によって分からなくなっている現実の人間には、それが集団の感覚によって形作られ、そうでないものに対しては差別的な不利益をあたえる結果となっているのです。

 もしそうであるとすれば、その受ける不利益を一時的にでも回避するために、美容整形という手段も許されるのではないかと考えられないでしょうか。もちろん、美容整形をキリスト教的に積極的に受け容れる他のものの考え方もあるのかもしれません。しかし、わたしが今お答えできることは、この消極的な存在理由しかありません。

 これ以上のことを言うためには、結局「美」とは何か、そして、美の実現を神は人間にどう望んでいらっしゃるのか、そのことがキリスト教的に理解されなければならないのだと思います。

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